~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-06)
武馬は左の一人を殴り倒した。男は倒れた達之助の顔につまづいてひっくり返る。父を助け起こそうと走り寄ったところへ右の一人が足をかけた。倒れながら横っかみに男の胸をとらえて振り飛ばすように前へ投げつける。
倒れた武馬の上へ後の一人が飛びかかる。蹴上げたが次の男が重なって来る。組みついたまま二人はホームを転げた。
転がってしまうと二人で七人はなんとしても分が悪い。起き上がろうとする出鼻をしたたか殴りつけられる。眼から出た火の中で、やっと起き上がった相手の一人が落ちたステッキを逆に振りかざして達之助へ襲いかかるのを見た。
「父さん!」
その瞬間、誰かの足がその男のすねを蹴上げたのだ。男はつんのめった。杖を握ったまま起き上がろうとする鼻へ、なたのような手刀が一閃して男を叩きつぶした。
加勢はものも言わず横っ飛びに走り、達之助にかぶさった男二人を蹴倒し、膝をついたままの一人の鼻っ柱へかかとを効かした横蹴りをくらわす。男はつぶれるような姿で仰向けに倒れ、倒れたまま口から血を吐いて動かなかった。
加勢は手早く達之助を引き起こしその手に奪い取ったステッキを握らして返す。次の瞬間、武馬に向っている三人の一人の襟首を後ろから掴むと、振り返る男の顎の下へ切り上げるように手首を叩き込む。怖ろしく手馴れてすばしこい。残る一人を達之助がステッキで叩きつぶした。
加勢が現れてあっと言う間に相手の七人がホームの上に転がっていた。気付いて駈け寄ろうとした駅員たちは驚いたように遠くから三人を見ていた。
肩で息をしながら達之助と武馬は倚り合って立っていた。武馬はこめかみを少しばかり切り、殴られた左の眼の下がれていた。学生服のボタンが二つ飛んでいる。
達之助の背広の襟が切れ、つまづいた靴で蹴られた右の頬骨の辺りが赤黒くあざになっている。
顔を見合した後、二人はようやく驚いたように見知らぬ加勢を見た。
濃いこんの背広をきちんと着た青年だ。武馬より一、二歳年上に見える。彼はたった今やって来たように、息も切らさず黙って微笑して立っていた。
「あ、あなたは ──」
言いかけた時、
「すみません、余計な手だしをいたしました」
彼は会釈えしゃくして言った。言いながら武馬のはだけた襟元を見て何故かにやりと笑った。
「いや、あんたのお蔭で助かった」
「とんでもない。しかしステッキを落とされたので一寸心配でした」
「いや全く、ステッキは不覚だ。しかし君はなかなかやるね」
流石にまだあえぎながら達之助は言う。青年は口をすぼめ煙たそうな顔をして笑った。
武馬は気付いた。先刻電車の中で彼らにならって誰かに席をゆずっていた青年に違いない。
男たちはようやくおびえたような眼をして立ち上がりかけた。青年の手刀でのどをやられた二人が未だ息が出来ず苦し紛れに転げまわっている。
「ち、畜生ちくしょう、おぼえてやがれ」
一人が言う。
青年が振り返って一歩踏み出すと、彼らは坐り込んだまま後へすさった。
「今日は気持のいい日です」
彼は言った。そして、
「ときどきこういうことをする必要があります」
次の上りの電車が入った。
青年はきびすを返し、
「失礼します」
「君 ──」
と呼び止めようとする達之助たちに、会釈すると、
「また」
一瞬悪戯いたずらっぽい表情で武馬に言った。
青年は駈けて行き、一番後の扉に飛び乗った。武馬は追いかけようとしたが、
「一寸、水が一杯飲みたいな」
未だ喘ぎながら達之助が言った。
ホームの水道で顔と手を洗う。傷の血はすぐにとまった。腫れた顔に水が冷たい。顔はなんとかなったが、学生服のボタンが飛んで恰好にならない。
流石すまなさそうに、達之助は、
「どうも、妙な入学式になったな。まあよかろう」
と言った。
武馬はなんとなく嬉しかった。今まで自分から一番近い所に父がいるような気がしていた。
「俺が居なかったら父さんも大変だった」
達之助はふんというように笑い、答えの代わりに、
「あの青年は何者かな」と言った。
2022/04/04
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