~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-07)
電車の中の人がみんな自分を見ているような気がし武馬は気がひけた。眼の下は腫れていたし、こめかみの傷も疼いて来る。事実、何人かの人間は彼の顔を驚いたように眺め、襟章と比べて不審な表情を見せる。その側にいる父親らしい男もそれに近い顔をしているのを見、彼らはまうます怪訝いたずらな顔になった。
親子して喧嘩に負けたのではない、勝ったのだと言うように、達之助はことさら電車の中で肩をいからし胸を張っていた。
お茶の水で電車を下りた。一件のせいで入学式の時間には遅れている。
拾ったタクシーに、
「急いで下さい」
「どちらへ」
「東大」
と当たり前そうに押しつけるような声で達之助が言う。
竜岡たつおか門を入ろうとする運転手に、
「ここは正門か?」
達之助がく、
「いえ、正門はこれから左の方で」
「正門へ行け」
「しかし急いでいるんじゃ ──」
「それとは別だ。正門へ行け」
達之助は言った。
正門で車を下りた。正門にぶっちがいに飾られた大日章旗を見て達之助は満足そうにうなった。
正門から真直ぐ式場の大講堂に向って歩いた。駈け出しそうな武馬に、
あせるな、みんなお前を待っている」
一歩一歩周りを見廻しながら達之助は言った。
式は始まっていた。講堂の周りには殆ど人影がない。
玄関の階段を上がる自分の足音が大きく響いて聞こえ武馬は気がひけた。
扉の後ろに係の事務員らしい男が立っている。男は遅れて入って来た学生服を中へ促すように眼で指しながら、学生とそに付き添いの入学式らしからぬ風体に驚いたような顔をして見直した。
「父兄のかたは二階へ、どうぞ。どうかされましたか?」
彼はたずねた。
「乗り物の事故で ──」
言おうとした武馬の後で、
「いやあ、与太者の暴漢を親子で処理しまして」
達之助は愉快そうに声をたてて笑って見せた。
父と別れた武馬は講堂に入った。新入生を迎える総長の祝辞が始まっている。武馬は足音をしのばせ、一番手近の空いている席にすべり込んだ。隣りの学生が彼を見返りまた驚いたような表情で眼をまばたく。武馬は知らん顔で総長の訓辞に聞き耳をたてるように前を向いたまま身をのり出していた。
ようやく気が落ちつき、隣りを気にしながら辺りを眺めて見た。同じような新しい同僚が並んでいる。彼らはみんな未だ互いに多少よそよそしく見えた。感動の緊張と言うより、何年かのやり切れないほどの努力の末にようやく辿り着いて、ここにこうして坐っていると言った風に見える。感動に頬を輝かせるなどと言うより、ここにこうして坐ることの出来た自分をことさら当然に感じようとしている、新しい学生服のkぅせにみんな妙に大人っぽく見えた。
少なくとも武馬には入学式に期待していたほどの興奮も感動も感じなかった。
遅れて来たせいで、やって来る前にそんな一件があってそのことに精力を集中しつくしてしまったという感じだ。
総長の訓辞が終り、代表が宣誓を述べた。
入学試験の成績の一番だった学生らしい。
「俺は受験番号は一番やったけどなあ」
誰かが小声でいい、周りがくすくす笑った。
来賓らいひんの祝辞の後、壇上にブラスバンドが出て来、音楽部の学生の指揮でみんなは手元に配られた紙を頼りに校歌が合唱された。父兄もこれに和した。武馬は父が二階できっと大声でうた っていることだろうと思った。
2022/04/04
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