~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-08)
式が終り学生たちは立ち上がって外に出た。その時になってみんな始めて好奇に充ちた眼で周りの同僚を眺め渡した。少なくとも顔に傷をこさえ、ボタンの二つ千切ちぎれた学生は彼一人だった。
武馬は正面石段の下で達之助とまた一緒になった。
「国のいしずえとなれ。総長は良いことを言う」
と達之助は言った。辺りを見廻し、
「ふむ、みんなお前の仲間だ。どれも未だ半人前だ。これからだ」
とまた言う。
入学式を当て込んで写真屋が出ている。
「写真をろう」
達之助は言った。
「だって、こんな恰好で ──」
「記念だ」
達之助に呼ばれ写真屋が近づいた。
「おめでとうございます」
「講堂をバックにな」
写真屋は二人を立たせ、その前に三脚を拡げる。方々で記念撮影をやってはいたが、こうやって人目の前で立つのはどうも面映おもはゆい。その時、
「おい、私も入れてくれ」
後から声があった。
五十も半ば過ぎた小柄の紳士しんしだ。彼は武馬と達之助に代わる代わる笑いかけると、
「私と一緒にろう」
貴方あなたは?」
「私は大熊おおぐまだ。君の先生だ。君の科は何だい」
「文一です」
「よろしい、それなら僕の講義をとりたまえ」
「先生の ──?」
「私の哲学をとりたまえ、哲学の大熊士郎だ。駒場でも一時間持っている。大熊より、超人先生と言った方が通りがよろしい。さあ、一緒に撮ろう。私は毎年必ず十人、何も知らん新しい学生と写真を撮ることにしているんだ」
小柄のくせに超人先生はいきなりぐいと武馬の腕をとって引き寄せた
「お父さん、あなたはそちら側。彼を真ん中にして、そう。さあ写真屋」
超人は胸をそらした。達之助は呆気あっけにとられたまま言われた通りに動いて立った。
シャッターと同時、
「よし」
大きな声で超人は言った。
「出来たら一枚くれたまえ、講義の時に渡せばよろしい。や、君は、あなたも一体おうしたんだねそれは」
武馬は困惑した。達之助が釈明した。
「ふむ、それは華々はなばなしい。それは愉快だ。意気があっていいねえ。君も親父もなかなかいいぞ。私はそんな話が好きでね」
声を立てて笑った。
「じゃ、また会おう。またお会いしましょう」
大いにうなずいて先生は立ち去った。
「面白そうな奴だ。奴はいかん、先生だ」
達之助が言う
「超人先生か、先輩の誰かが東大三奇人の一人だと言ってたよ」
「まともすぎる奴より、奇人の方がまだいい」
肩を持つように達之助は言った。
武馬は立ったまま、思わず眼を見張った。
今眼の前を通り過ぎて行った若い女の横顔が、白昼の幻影を想わせる程綺麗きれいに見えた。同僚の新入生らしい、黒のスーツを着た、背の高い女だ。
「学生だよ、俺たちと一緒だよ」
先刻さっき、講堂の中でも見た」
近くの学生が彼女についてささやき合っていた。
武馬は確かめるようにその後姿を追った。女は正門の方に一人で歩いて行く。手にした真白い手袋があざやかだった。通りすぎの一瞬に垣間かいま見た印象だったが、化粧もしないその横顔は、女にはうとい武馬にもぞっとする程の美しさに見えたのだ。
2022/04/04
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