~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-09)
「おい」
達之助が呼んだ。
「なにをぼんやりしとる」
言われて武馬は思わず顔を赤くした。今通り過ぎた美人の女子学生に見とれていたところをのぞかれてしまったような気がし、体裁ていさいが悪い。
が、達之助はにやりと笑って、
「今行った娘か。美人だ」
見るものは見ている。
妙にうそぶくように言う。が、小首をかしげると、
「あの娘はどこかで見たことがあるな」
今度は武馬が驚いた。
「何処で?」
「いや、そうじゃない。知っている誰かによく似ていたな」
「誰に」
「それが想い出せない。が誰でもよろしい」
達之助は封じ込むように言った。達之助の記憶力はすぐれていたが、それだけは想い出せないらしい。
うまく想い出して、彼女が案外親父の想いがけない昔の友人の娘かなんかだと非常にいいがな、と武馬は思った。
「来たついでに、大学の中を一廻り歩こう」
達之助は言って歩き出す。
三四郎池のそばにも入学式の付き添いと一緒に記念写真を撮る学生の姿が見える。あるグループからは華やかな嬌声きょうせいが上がり、洒落しゃれいたなりの娘たちに囲まれて照れたり、何やら言い返している学生も見えた。
武馬は他の方を眺めたが、達之助は感心したようにそのグループを眺めていた。
「ふむ、なるほど」
達之助は言った。半分感心したようにそのグループを眺めていた。
「ふむ、なるほど」
達之助は言った。半分感心したような曖昧あいまいな表情だった。やがて一つせきをし、なにやら思い直した風に、
「武馬はお前は未だ ──」
言いかけたが、
「いや未だ、その ──」
「なんですか」
「いやまあよろしい。父さんが教えなきゃならんものもまだるが、いやそれはまあよろしい。或いは、或いはだ、お前一人でやれ」
「なにをです?」
「いろいろのことだ」
言ってから達之助は何故なぜだかにやりと笑った。
御殿山を下りてまた大講堂前へ戻って来ると、いつの間にか法文一号館の前の道に沿って屋台のように机が並べられてある。机の前にはてんでにビラが貼られ、あちこちその後ろで学生がみんなに向って怒鳴っていた。運動部の勧誘だ。
机の前に貼られた紙には、あらかじめ提出させられた入学書類の特殊技能欄を参照にして選び出された学生たちの名前が乱暴な字で記されてある。「右の諸君、連絡されたし」と。その他に頑丈がんじょうそうな新入生が通りかかると、てんでの部員が飛び出して口をかけた。
ボート部の連中が一人の学生に近づくと、遠くから、
「おい、それはもううちに決まったんだ。手をつけるな。君、心変わりするなよ」
ラクビー部の部員が怒鳴った。
2022/04/04
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