~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-10)
達之助と武馬はその間を抜けて正門へ出ようとした。
彼の体つきを見て、ボートとサッカーとラグビーから声がかかった。
その度武馬は上気し、かしこまって、
「考えさせて頂きます」
と言った。みんなはあらためて武馬のれた眼のあたりをじろじろ眺めた。
「とにかく君、名前だけ聞かしといてくれよ」
ラグビーの男が言う。ずんぐりすた体つきの、右の額から眉にかけて斜めに大きな傷跡がある。傷のせいかものを言う度、彼はしかめるように右の片眼だけを細くする。
「僕は二年の森っていうんだ。へへ、洒落じゃないぜ」
笑いながら片眼をつむると指で傷をなでた。
「名前は?」
「文一、坂木さかき武馬」
「はて、坂木君?」
急いで手元の紙を眺めると、
「君、フィールドの専門だな。幅跳びの記録持ってたんだねえ」
「じっと昔です」
「そうかあ、この体でそのスプリントがあるとはなあ。うちはスリークォーターに新人を探してるんだ。いけるんだがなあ」
一人で納得なっとくして武馬の胸の辺りをかまわず押して見ると、
「浪人ぼけそとらんよ、この体なら」
武馬は一寸ばかりむっとした。
「とのかく考えてみます」
「うんと言えよ、うんと」
「しかし」
「とにかく待っている。いつでも部屋に来てくれ。僕あ森だよ」
武馬は歩き出した。
「なれなれしい奴だ」
「向こうも大変だ。一寸した吉原辺りの客ひ ──。いやなかなか、見ろ、あそこのビラにもお目の名前が書いてあるぞ」
ハンドボールと陸上競技部だ。
競技部だけならともかく、一度もやったことのないラグビーやハンドボールの連中が彼の名前を書き抜いているのには、武馬が面食らった。
武馬は例の書類の、特殊技能、経験スポーツを書き込むらんに、高校の途中で止めはしたが、陸上競技、と書き、中学校の時持っていた大会記録を書き込んでおいた。それがマークされているに間違いはなかった。
競技部のビラには、彼の名前がトップに書かれてある。声がかかる度、達之助は満更ではなさそうに、受け答えする武馬を無理に然と待って眺めている
武馬はどの相手にも同じように、
「考えてみます」と言った。
止めていた幅跳びをもう一度やるか、或いは何か別の運動を始めるか、本当に今のところ考えてはいない。入試の目的を達した今、仲間から蹴落とされないだけの勉強も必要だが、同時に何か運動が必要だとは彼も思った。
周りが急にざわめいた。
「あれは杉だ」
湘南しょうなん高校のピチャーの杉だよ」
誰かが言っている。
武馬の前の野球部と書いた机へ、部員らしい連中に囲まれて痩せた、怖ろしく背の高い男が歩いている。六尺に寸はある。が馬鹿に痩せていた。
武馬も知っている。昨年の夏の大会に、ダークホースにも挙げられていなかった湘南高校のマウンドを守り切って相手をなで切りにし、大会創始以来の三振記録をうち立て、湘南を思いがけぬ二度目の全国優勝に引っ張って行った奴だ。
二年生までファーストをやっていた彼は、去年の春投手に転向してから、新聞の記事流にいうと、驚異的なタレントを発掘されたのだ。夏の大会以来、彼のプロはだしのスピードボールと頭のピッチングを巡ってプロのスカウトが入り乱れた。
2022/04/05
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