~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-11)
しかしそれもすぐに止んだ。何を言われても杉は、「僕は東大にいきます」と答えた。
後ろから家をつついても駄目だった。湘南で精神病院を経営している医者の父親はどのスカウトにも、
「息子に決めさせたまえ。わしは野球などという野暮なスポーツは大嫌いでね」と言ったそうだ。
院長の前に現金を積んで見せたスカウトには
「金はいらない。当節気狂いが多いのでこの病院は非常によく儲かるからね」
杉当主の父親はにやにや笑って言ったそうである。
誰がいっても、、答えはいつも同じだった。しつこい連中もついにあきらめた。世のファンはただ杉投手が無事大学に入り、春のリーグ戦で今までは不可能とされていたある波乱が巻き起こされんことを期待していた。
だから武馬も、他のほとんどの受験生が、自分たちの競争者の中にあのひょろ長い野球選手が一人加わっていたことは知っていた。
眼の前にひょろ長く立っている杉を見て、武馬はあらためて彼のパスを知った訳だ。武馬は達之助に説明した。達之助は「ふむ」とだけ頷いた。
みんなの眼が杉に集まっていた。
が、何故か杉は非常に当惑して見えた。実際、部員たちに囲まれてやって来た彼の恰好は街でつかままった新米の掏摸すりみたいにしょげて、しきりに辺りを気にしている。受験の勉強で悪くしたのか、彼は新しい黒い四角いふちの眼鏡をかけている。それがどうにも板につかず恰好が悪い。合わないのか、ずり落ちかかる眼鏡を彼はかがみ込んだ手つきで幾度ももち上げていた。
「やあ君、逃げなくたっていいじゃないか。この前は失敬した」
最上級生らしい学生が迎えながら言った。
「に、逃げやしません。で、でも話は前と同じです」
杉投手は自分を囲んだ視線に上がったのかどもりがちながら言った。
「ぼ、ぼくは野球をやりに、こ、この学校に来たんじゃない」
「そりゃわかるよ」
「あ、当たり前な話だけど、勉強しないと、僕困るんです」
「そりゃわかるよ」
「君、科は?」
「理二です」
「で?」
「医学部へいきます」
「医学部か」部員の誰かが歎息した。
医学部というのは面倒くさい。同じ理二の中でも圧倒的に志望者が多い。本郷の専門科に移る前に医学部だけは激しい競争がある。東大の学内浪人というのは殆どがこれだ。
「医者になるのかい?」
当たり前のことを誰かがく。
「はい」
「でもなんとかならんかねえ。僕らは君に期待してたんだ。今までやれなかっやことを、君と一緒に、君の力を借りてやりたいと思ってたんだ」
「東大に必要なのは断然藪医者やぶいしゃじゃない。名投手だ!」
誰かが後で弥次った。
「で、でも、僕あ医者になります」
当惑したように、が、きっぱりと彼は言った。
「しかし、君、医者になりながらだって野球は出来るぜ」
「楽じゃねえぞ」誰かが怒鳴った。
囲みの中で杉は消え入るように長い体をかがめてうつむいていた。
医学部に行っても野球は出来る」
他人事ひとごとだから主将キャプテンは自信有り気に言った。
「だ、だめです」
杉はまた眼鏡をずり上げ、小さな声で言った。
「ぼ、僕親父と約束しました。学部で一番にならなきゃ野球はやらないって」
みんながざわざわした。言ってしまうと杉はやけみたいに真直ぐ頭を上げてもんなの頭の上の講堂の屋根の辺りを見つめていた。
「そうか、一番にねえ」
巫山戯ふざけて言いかけた声が途中でしゅんとした。
「すみません、僕帰ります」
恐縮した顔で言うと、杉はまた身をかがめ周りをかき分けるようにして歩き出した。
「考えてくれよ、な」
追って言う声に、答える代わり、背を向けたまままた眼鏡を直した。
「この春またしても東大、ビリか」
誰かが言った。
武馬と達之助は歩き出した。
「ふむ、ああいう男もいる。あれはあれでよろしい」
達之助は言った。
「しかし、お前は無理して一番にならんでもいい、勉強するだけなら大学まで来なくてもいい。その代わり、自分で納得のいく成績を取ればよろしい」
2022/04/05
Next