~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-12)
翌日の晩、達之助は神戸に帰った。下宿で彼の生まれて初めての一人の生活が始まった。下宿先は中野の、達之助の船長時代の後輩の留守宅だ。子供がなく、細君をなくしたその船長の家には両親の七十越した老夫婦と、手伝いの小母さんしかいない。環境は静かだった。
その翌日、教養学部のある駒場でこと始めが行われた。配られた案内テキストにも当日必ず全員出席と記されてある。
ガイダンスの第一日目と、教務部、学生部、学生相談所からの、これから始まる大学生活についてのいろいろの説明があり、最後に決められたクラス毎に、担任の教授と新しい仲間同士の顔見せがある。
大教室での説明事項の終了後、みんなは張り出されたリストに従ってそれぞれのクラスルームに入って行った。
武馬はクラスルームに当てられた本館二階の二十番教室に向って歩いていた。教室に入りながら、新しい仲間はてんで互いにぶしつけな眼を交わし合う。先に来ている連中の中で、大人びた手つきで煙草を吸っている学生が何人のいた。予備校辺りで知り合った仲間か、彼等は平気で冗談口じょうだんぐちを叩き合い、遠くから煙草を放ってやったりする。
入学式当日より、何故かこの日の方が武馬は緊張した。同じ廊下を歩いて来、後姿を認めていた同じ高校の二年浪人の先輩は、二十番教室を通り過ぎ隣りの部屋に入ってしまった。見渡したが知った顔は何処にもいはしない。
「駅の近くにジャン屋があるそうだぜ」
「帰りに行くか」
「よし、一丁やろう」
「お前には貸しがあるぜ」
「わかってるって。一寸腕が上がってるんだ」
「お前なんざまだまだ。俺は試験に通るか、ジャンで二段とれるか、どっちかってけてたんだが」
「どうしたい」
「通った」
「そりゃ当り前さ」
「そうじゃない、二段免許皆伝めんきょかいでんだよ」
周りで連中がてんでに勝手なことを言っていた。武馬は前を向いたまま机に置いた校内案内のテキストを開いて見た。
急にみんながしんとなった。教授が来たのかと武馬は顔を上げた。
教授ではなかった。あの女子学生だった。教室は現金なほど静かになった。
彼女はあの日と同じ白い手袋に洒落た蛇皮のノートケースを持っている。黒い襟の高い服がすんなりした首と白く細い顎を浮き立たせて見えた。長かった髪が今日は襟足をぬいてアップに巻いて束ねてある。
彼女は戸口で中に軽く会釈えしゃくし、戸の側の列の誰も居ない一番後の椅子に腰を下した。
部屋中に軽い歎息があった。恐らく入学式の時からみんなの注目を集めたあの女子学生が、自分と同じクラスに居るということで、みんなは秘かに満足し興奮していた。
武馬は盗むようにその横顔を見直して見た。みんながそうしていた。その視線を感じてか感じないでか、小さい微笑を浮かべながら彼女はじっと動かず前を見つめている。その横顔はあらためて見ても、ぞっとするほど美しく上品だった。
そのままみんなは静かになった。
続いてクラスルームに入って来る学生たちは、もんな驚いたように彼女を見直した。空いている彼女の周りの席に、誰も坐りにいく者がない。
また一人、学生が入って来た。背広を着た男だ。その男は戸口でちらと教室を見廻し、みんなの見ている前で女子学生を見つめながらあっと言う間に、そのすぐ横の椅子に腰を下ろした。
武馬はみんなの気配けはいで眼を上げ、その男が座るのを見た。
「あっ!」
思わず声が出た。
学生は一昨日、あの浜松町の駅でいきなり飛び込んで相手をなぎ倒し達之助と彼をたすけたあの青年だった。
武馬の襟元を見て、彼がにやっと笑った訳がわかった。
視線を感じてか、青年はゆっくり彼の方を振り返る。眼が合い、彼を認めた時、青年はもう一度あの時のように悪戯いたずらっぽくにやりと笑った。
2022/04/06
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