~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-13)
みんなが彼を見ていた。見ている前で彼女の横へ平気で坐ってしまったその男を、他の同僚たちは殆どとがめるような眼で見守っていた。
彼はそんな気配に気づいてかどうか、当り前の顔で落ちついた微笑を浮かべながらも、ゆっくり教室の中を見廻し、誰の目にいき会っても全くものおじするような表情がない。教室中の中で彼が何故か一番ゆったりと落ちついて見える。それでいながら武馬に知っているあの浜松町のシーンを充分に納得なっとくさせるような、何処かひそんだ強いバネのような精悍せいかんさが感じられた。
辺りを眺めわたし、彼は最後に一番身近の例の女子学生を見つめた。流石に感心したようにその眉を軽くひそめた。
その視線を感じてか彼女は振り返り、視線の合った彼へ会釈する。誰かがせきをし、他の誰かが、「ちぇっ」と言った。
青年はゆっくり振り返る。その眼の前にみんながしゅんとした。教室中の空気が彼に食われた、と言うより妙に気圧けおされ牛耳ぎゅうじられている。黙ったまま坐っている青年の居ずまいの中に、他の学生にはない訳のわからぬ気合のようなものがあった。
青年はそのままもう一度武馬を見て笑いかけた。そばの学生が一寸とがめるように彼を見る。が武馬も笑い返した。その青年が武馬にとってクラスで出来た最初の友人と思えた。
立ち上がり、先日の挨拶あいさつに行こうとした時担任の教授が教室の戸口に現われた。みんなざわざわと威儀いぎを正し体を変えて教壇にに向き直った。
武馬のホームクラス文一D組の担任は生物学の繁岡しげおか助教授だ。教壇に立った繁岡先生なる人物は色の黒い、教壇に立つと尚更小さく見える、代わりに馬鹿に横幅のある男だ。年は四十一寸ちょっとというところか。
繁岡氏は教壇に立つとひと渡り教室を嘗め廻し、急ににやっと笑うと、
「これで全部かね、俺の動物たちは」
戸口に近い学生を指して、
「君、その檻の戸をしめろよ」
言われた学生は飛び上がるように立って戸を閉める。
「そうやってすぐに行くことをきくのも今の内だな」
学生たちが笑った。
「本当さ、とにかく君ら、見てたまえ、すぐに勝手なことを言うようになる。しかしそうなるのはいい。ならないのが困る。なにしろ、君ら、うちは入った後々あとあと競争があって、なかなか大変だよ。時に、君らの中でストレートで入った人は何人いる。手を上げたまえ」
クラスの一割うらいの学生がばらばらと手を上げた。中にあの女子学生もいる。
「ふうん、案外多いな。馬鹿だね君らは、なんで一、二年浪人して来ない。その方が先にいってずいぶんとためになるぞ。ストレートで入るなんぞ、昔の中学四年から高等学校に入るより意味がない。君らストレート組みに限って大抵先になって問題を起こす。それに比べて見ろ、浪人組はなかなかしたたかないい顔をしている」
みんなが笑った。
「とにかく君ら、僕のクラスに来て幸せと思え。僕は動物学が専門だから動物の扱いは馴れている。ノイローゼ、性的コンプレックス、なんでも相談に来るがいい。女が出来てうまくいかなかったら僕に相談しろ、かけ合わせるのは馴れてる。ヤ、これは失礼、どうも女学生が居ると話しづらいね。ふむ、まして美人だ。君らなかなかいいクラスに入ったぞ」
「そう思います」
誰かが半畳を入れた。
繁岡氏はさらに胸を張って、
「とにかく君ら、このクラスに僕と一緒になっや以上、この僕を父といやまい兄として敬さねばならん。もつとも僕は君らを、研究室で飼っているうさぎか猿くらいにしか思わんが、兎なるがゆえにこのホームクラスに居る時は僕にすべてをゆだねて何でも相談することだ」
「兎かあ」
誰かが言った。
「そうさ兎だよ。よっぽど自分はかしこくって大人だと思ってるんだろうが、僕から見りゃみんなメンコイよ」
「けヘヘヘ」
その声でみんなが笑った。
「とにかく君らなんでも言って来い。僕が見事にさばいてやる。三年前、ノイローゼで死にそうだった奴を僕が友達の医者へ連れて行って包茎ほうけいの手術をさせたらたちまち恢復かいふくしてね、一番の成績で本郷に行ったよ。全く兎だね僕にとっちゃ」
ぽかんとしているみんなの前で、誰かだけが、「あははは」と声を上げた。
「その兎がだ、何に育つかこれは僕にもわからん。それがこの短い大学生活で決まるとも思わない。人によっては彼が大物の像となり虎となる人間的変貌、或いはその完成を更に更に年経て人生の後半に入ってすると言う者もあるだろうし。大学はそのためのほんの準備期間、別段絶対に必要とも言えぬある段階にすぎない。しかし、この時期に迷うことが或いは一生を支配する誤ちに通じると言うことはあり得る。
諸君がつまらん迷い方をせんように、いかに遠くともある完成に向かって出来るだけ真直ぐに歩いて行くように、私のような飼育係がいるわけだ。諸君がこの大学に於いて本当にすべきこと、それは勉強なんぞではない。そんなものはめいめいいい加減に後悔せん程度にやっておけばいい。すべきことは、諸君、諸君の人生に向ってこの四年間、爪を研ぐことだ。爪を砥ぐ。それが何を意味するのか、それは諸君自身がこの大学の生活を通じて己を知るべきことだ!」
繁岡氏は黒い顔の中で白い歯をむき出すようにして言い切ると、睨むようにみんなの顔を見、突然大声で、
「終り!」と言った。
誰かが手を叩いた。繁岡氏は急に照れたようににやりと笑った。
2022/04/07
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