~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-14)
繁岡氏の前で志望者をつのってクラスの委員を決めた。それれの委員たちの世話で近い内第一回のクラスコンパを行うことが決められた。
繁岡氏が」出て行った後にみんなが立ち上がった。一人で出て行く女生徒を見送りながら、みんなは例の青年がそのまま一緒に出て行くんじゃないかというように彼を見返った。
誰かが教室を出ながら繁岡氏の噂をしている。
「あいつの講義は品がないんで有名だそうだぜ」
「あれも東大何奇人の候補者だって話だ」
「兎だなんて馬鹿にしてやがらあ」
「お前は違うよ」
「猿だってのか、おい」
「違うさ、お前はすぐに虎になるじゃねえか」
浪人組らしき面相の一人だ。
武馬は机の間をぬって例の青年に近づいた。
「この前はどうも」
「やあ」
「同じ学校とは思いませんでした」
「僕はバッジでわかりましたが。しかし同じクラスとはね」
坂木さかき武馬です」
和久わくと言います。よろしく」
大人っぽい口調で言った。
「父は神戸に帰りましたが君に感謝していました」
「いやあ、しかし君もお父さんもやるね。あんな年輩の人があんなにやるとは驚いた」
「昔外国航路の船長をしてましてね、気だけは強いんだ」
「へえ、船に、随分鳴らしたんだろうな」
「君の家は何処ですか」
「横浜です」
何故だか彼は口をつむぐように言った。
「僕は中野に下宿しています。よろしかったらいつか遊びに来て下さい。全然気をつかわないところですから。帰ったら君のことを親父に書いてやりますよ。きっと驚いて愉快がるでしょう」
「はは、弱ったな」
「しかし、君はすごく強いね」
「いやあ、ああいうことは、わりと、いや、ただいつのまにか馴れてね、つい ──」
困ったような顔だ。
「とにかく、腕力も君やお父さんのようにああした使い道はあるもんだな」
「親父を見ているとそんな気もしますが、しかしやっぱり恥ずかしい時が多い」
「そうかな。でも僕、こう言っちゃ失礼だが、君のお父さんは気にいったな」
和久はにっこり笑った。
本館を出、二人は正門に向かって歩いた。互いに知り始めで話し合うことがなかったが、それでも肩を並べて一歩一歩足を揃えながらゆっくり歩いた。玉砂利が重くきしんで鳴る。庭の木立にふき出した芽は青く、空は晴れ上がっていた。武馬は二人が互いに近しい友人になれるような気がしていた。
正門を出た時、横合いから、
「若旦那!」
二人は振り返った。門の横に隠れるようにしていた男が二人に向って近づいた。黒っぽい背広の下にネクタイをしめず、男は新しい雪駄せったをはいている。うかがうように武馬を見た眼が鋭い。六十がらみの年輩に似ず、未だ新しい二寸ほどの傷が唇から頬にかけて見えた。
たつさん!」
男を認めて和久が言った。何故か武馬に向って彼を隠すように間へ出ると、眉をひそめて小声で、が激しく、
「困るじゃないか、こんなところへ来て!」
「申し訳ありません。それが若旦那!」
武馬は何故か間が悪そうな和久を察して後へ離れかかった。が、男が小声で言った言葉が耳にとどいた。
「旦那が、き、切られた!」
「親父が!」
和久が小さく叫んだ。
武馬へ振り返ると無理に笑って、
「僕、一寸ここで失礼します」
言うと背をかがめる男をうながして逆の方向へ離れた。武馬は仕方なく一人で駅に向かって歩いた。
2022/04/07
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