~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-15)
ガイダンスが終り、授業が始まったが、それきり一週間近く武馬は和久の姿を見ることがなかった。
一週間目の昼休み、学生食堂に入った武馬は入口に近いテーブルに和久が坐っているのを見つけた。
近づいた彼に眼を上げ、
「やあ」
和久は笑う。
「どうしたんです。ずっと見えなかった」
「ええ、一寸用事が出来て」
「お父さんがどうかしたんですか」
和久は一瞬、探るような眼で見返し、すぐに当惑した表情で、
「ええ、一寸、つまらん怪我けがをしましてね」
にごすように言ったが、言いながら何故か急に怒ったような顔になる。
それ以上かず武馬は空いている隣りの席に坐った。
「午後のフランス語は出ますか?」
「出ます」

食事の後時計を見て二人は教室に入った。教壇の前の机に五、六人人だかりがしている。中の一人が机にかがんでいた体を起こした。彼が書いたらしく、机の上に、
「NE MONTEZ PAS SUR TABLE AVEC VORTE SOULIEES」
とある。ところどころ消して書き直した跡がある。
「なんて言う意味だい?」
靴を履いて上がるな、さ、多分これでいいだろうな」
「しかしこれで言うことをきくかな、あいつ」
和久は何の事かわからずに見て過ぎたが、武馬には彼らのやっていることのわけがわかった。
机の文字の当てにするものは間もなくやって来るこお時間のフランス人講師、レオン・グリエだ。日本に空手からてと柔道の武者修行に来ているとかいうソルボンヌ出のこの文学士は、戦争中フランス降伏後も自由フランスの空軍のパイロットだったとかで、「フランス文学」などと言う柔らき印象とはかけ離れてえらく鼻っぱしらが強い。
この春日本にやって来、いわば一種のアルバイトでフランス語会話とフランス文学を今学期から教えている訳だ。日本語英語を全く解さない、と称するこの男はテキストを片手に始終何やら早口でまくしたてて学生たちを次々に立たせてテキストを読ませると、その後何やら訳の判らぬ質問を浴びせ、答えられぬと一人で「あはは」と笑い、顕かに人を子馬鹿にしたような台詞せりふを吐きちらす。
なによりしゃくなのは教壇に上がると人を食った発音で名を呼びながら出席をとり、それも面倒がって大抵半分でなげ出してしまうとそのままひょいとひとまたぎ、教壇の机の上に土足で飛び乗る。この講師を敬遠して後の机に固まっている生徒の前まで大男のグリエは空いている机を一つ置きに踏み越えてやって来る。そのまま土足で机の上を歩き廻り、クレーンみたいな手を振っては、坐っている生徒を次々に立たせてやり込めるという訳だ。
どうにも癪にさわるが、初手から度肝どきもをぬかれたのと、第一日本語や英語でものを言ってもにやにやそっぽを向かれて言葉が通じないせいで、結局みんな一時間通して机の上に雲つく大男を見上げたままただあれよあれよと授業を受けるだけだった。
それに義憤を感じた誰かが、馴れないフランス語をあやつって机の上に禁土足の大書をしたわけだ。
入って来た学生はみんなその文字を眺め意味を正すとその結果いかにと半ば期待し、半ば怖れた。なにしを相手はつむじ曲がりの大男だ。
眼につかぬいい席をとるためか、或いは遅参の言い訳がわずらわしくってか、始業の鐘が鳴ると殆どの学生が教室に坐っていた。
金から五分ほどしてグリエが入って来た教卓で出席を取りにかかる前、ちらと視線を走らせ机の文字を眺めた。どうやら意味がつかめた気配だったが、彼は表情を変えない。今日は先日とは逆で後半分だけの出席を取り終わると、出席簿を放り出し、テキストをポケットからひねり出し、教壇の端まで来た。
「Regardez bien!」(よく見ろ!)
誰かが隅から言った。
グリエは改めて気づいたように文字を見下し、鼻の先で「ふん」と嘲笑わらった。
「Est ce-que c'est le francias?(これはフランス語」かね)」
顎でさす。
「Gauche(下手な字だ)」
肩をすくめると、そのままぽんと机に飛び乗った。
「畜生、駄目か」
誰かが言う。
そのまま例のように机の上を歩いて来ると、さっと一人を指す。指された男が手間取ると、巫山戯ふざけた手つきでその襟をつまんで立たせた。
「なんだあいつ!」
武馬の隣りで和久がうなった。小さい声ながら彼が本気で怒っているのが武馬にはわかった。
大男のフランス人に気圧されたまま授業が進んだ。何人目かにグリエは和久を指した。
「OUI(はい)」
と腰を上げたと見るや、和久はそのままテキストをわしづかみにし、椅子を踏むとグリに向かい合って机の上へ真直ぐ突っ立ったのだ。みんなが固唾かたずを呑んでグルエを見上げた。
大男は小さく表情を変えたが、ちらと笑うと、
「Allez Monsieur (どうぞやりたまえ)」
変に丁寧ていねいだ。
和久のリーディングはなかなか見事だった。
「Bien (よろしい)」
ルリエは言い、質問をしかける。突っ立ったまま和久は健闘した。
「Tres bien (大変けっこう)」
肩をすくめると、グリエは薄笑いを浮かべ、前より早口で何かたずねた。一年生にいろんなフランス語のわかるわけはない。ただ感じで、何か人を小馬鹿にからかった文句を並べていることだけは誰にもわかった。
和久は黙って唇を小さく噛んだまま突っ立っていた。グリエは言い終わり、同じように笑ったまま鼻の先で、
「HUN?」
「NON」とだけ和久が答えた。
「アハハ」とグリエは顎で坐れと指す。和久は黙ってグリエを見つめたまま腰を引いた。が、椅子には下りずそのまま机の上に腰を下した。
瞬間、むっとした表情でグリエは和久を見やったが、肩をすくめ知らん顔で和久の斜め前の男を指した。学生は背後の和久を気にしながら立った。和久は黙ってそのまま坐っている。
その学生が終わった。そしてその次グリエは後の武馬を指した。
和久は斜め上から彼を見た。武馬はそれへ知らん顔で立ち上がった。そして椅子を踏んだ。腰かけた和久の隣りの机の上へ武馬も黙ったままのっそりと立ち上がった。
大男の青い眼が光った。
2022/04/07
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