~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-16)
みんながざわざわした。武馬は横で和久がにやりと笑うのを感じていた。グリエは何か言おうとし、やっとそれをこらえているようだった。顔色だけが見る見る真赤になる。武馬は努めて無表情にその眼を見つめていた。
「Allez (やりたまえ)」
やっと我慢したような声で大男は言った。
武馬はテキストを読み出した。武馬の発音の間違いを二か所ほどグリエが直す。武馬は言われた通りに読み直した。グリエはうかがうような眼で交互に彼と和久を眺めている。
読み終わった武馬にただ頷き返すと、質問もせずに坐れと言う。武馬も黙って眼で頷き、薄笑いを浮かべながら和久と並んで机の上に坐ってやる。坐りながら武馬と和久は一緒ににやりと彼に向かって笑った。
赤い顔が青くなり、グリエは何か叫ぼうとして口を動かしたがそれを噛み殺してそっぽを向いた。
次の学生を探しながら一寸間彼は手間取った。それが今度は誰かの机の上に立ったりしないような学生を捜しでもするかのようにうろうろしている印象を与えた。誰かがくすくす笑う。
グリエは怒った眼でその方を捜しかかったが、途中で視線を止め作ったように笑うと、
「マドモアゼル・ヤマガタ、Sil vous plait (どうぞ)」
例の女子学生に向って叫んだ。流石フランス人だけあって、言いにくい日本語でも美人の名前だけは覚えている。
もんながなんとなく彼女へ振り返った。しかし、相手が女では教室の勝負は中断された形だ。
山形明子やまがたあきこはうつむき加減に眼を伏せたままテキストを手に立ち上がった。いつもは白い頬の辺りが薄く染んだように赤い。
グリエは愛想笑いで彼女に頷いた。立ち上がりながら明子はちらと斜め前の机に坐ったままの二人を見た。
「失礼します」
立って、何故か隣りに坐った学生に言った。その男が訳がわからず頷き返す前に、明子はスカートのすそをかるく抑えながら椅子の上に立ち上がったのだ。流石に靴だけは脱いでいた。
押し殺した歓声が部屋におきた。誰かが思わず手を叩いた。
大男は信じ難いものを見守るように、眼を大きく見開いたまま突っ立っていた。今浮かべていた愛想笑いが妙にひんまがったまま、口を開けている。
明子とグリエを見比べながら、
「うむ」とうなり、ついで、
「あははは」
和久が声をたてて笑った。
その声に気づいたようにグリエの歩費が頬がひきつり唇が震えた。口走るように明子に向って何か言う。要するに、それが教養とつつしみある婦人にあるまじき行為ということらしい。しかし明子は逆に驚いたような眼で大男を見返しながら、澄ました微笑で立っていた。
みんなが余計にざわざわする。机の上で明子に向き合ったまま、グリエは恰好がつかなくなった表情で、何やら小さくわめいた。誰も何だかわからない。
彼の眼に出喰わすとみんながにやにや笑い返した。先刻さっきまではどうなるかと思っていたが、女子が同じように立ち上がったのを見ると、みんなには妙な興奮が湧いて来た。
グリエは絶望したように、が同時に大層怒りたったような眼を明子に向け直す。
明子はそれに向って真直ぐ立っていた。流石緊張してか、先刻赤かった頬が今は青白い。しかし眼だけは同じようにグリエの青い眼を見返している。引き締められた口元にかすかに浮かんだ微笑は殆ど高貴なものにさえ見えた。
「おお、ジャンヌ・ダルク」
和久が言った。
「ゴッド・セーブ・ザ・クィーン!」と誰かが。そして、
「アーメン」
2022/04/08
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