~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-17)
青くなっていたグリエの顔がまた前よりも真赤になった。テキストを叩きつけグリエは殆ど詰め寄るように和久の前に立ちはだかった。頭ごなしに何ごとか怒鳴り、怒鳴りながら踏んまえた机を足で蹴った。
和久がまたゆっくり立ち上がった。つづいて武馬も。胸を合わすように立って向うと、グリエを真似したゼスチュアでゆっくりを肩をすくめると、
「Pardon je nu comprendes pas gompletement (どうも、全くわかりません)」
和久は言った。
「誰かフランス語で『下りろ』と言うのは何て言うんですか?」
立ったまま振り返ると武馬が言った。
「待ってろ、今辞書を引く」
「Descendez だ」
誰かが言った。
「ありがとう」
向き直ると
「Descendez (おりろ)」
慌てて、
「S`il vous plait !(どうぞ!)」
と、武馬は言った。
下りる代わりにグリエは何かを怒鳴った。
「Dcsendez,s s`il vous plait (どうか下りて下さい)」
武馬はもう一度言った。同じだった。
「おい、みんな、立とうぜ」
言って誰かが机に立ち上がった。クラス委員を受け持った柴田という顎のしゃくれた早口な男だ。何人かがつづいたと見る時、クラス中の学生が机の上に立ち上がった。
とんでもなく遠くに離れていた学生は、机の上をみんなそばまで歩いて来る。大男を囲むようにみんなが立っていた。
グリエは何かを叫んだ。口をついた言葉の中で、「ストライキ!」と言うのだけがわかった。わめきながらグリエは一歩後の机に退った。
その前に、詰め寄るように和久が出た。
「ストライキじゃない、貴方が悪い、失礼だ。と言うのは何て言うんだ、フランス語で?」
つめて出た和久にグリエは、一瞬おびえたような眼の色を見せた。何かわめきながらグリエは和久の肩の辺りを放すようについた。が、和久は体を開いた。手をそらされ平衡へいこうを失って大男は机の上でよろけた。平衡を戻そうと逆に後によろける彼を助けようと和久が前へ出た。
グリエは何を勘違いしたか、それから逃れるように更に一歩後の机に退った。その足が机を踏み外した。一瞬、柄になく女のような悲鳴を上げると大男はのぞけったまま仰向けにぶっ倒れた。
倒れながらなまじ柔道の勘でか彼は体を横にひねった。それが尚悪かった。机を外れた彼の体はすさまじい音をたてて机と机の間の通路の床へ殆ど逆さまに落っこちたのだった。
思わずみんながどっと笑った。
が落っこちたきり打ちどころが悪かったか大男は動かない。
武馬が飛び下りた。つづいて和久が。グリエは眼をつり上げ口の周りに白い泡をふいて転がっている。ゆすったが動かなかった。
「死んだんじゃねえか」
冗談じょうだんじゃない。手をかしてくれ、医務室へ運ぼう」
和久が言う。
みんなが手をかし、倒れたままの大男を持ち上げた。見た以上に重い。
本館を出、庭を横切って遠くにある診療書まで運ぶ彼らを見て守衛が驚いて飛んで来た。もう一人の守衛が一号館の事務室へ知らせに走った。
2022/04/08
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