~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-18)
「一体どうしたんだ」
運び込まれたグリエを見、当直の医者が驚いて訊ねる。
「自分で机の上から落っこちたんです」
「机の上からだって?」
「みんなが見ている前でです」
医者は首を傾げんがらも注射を打った。
事務長がかけつけて来た。
「ど、どうしたんだ!」
「机の上から落っこちました」
誰かが同じことを言った。
気づけをかがされグリエは眼をさました。眼の前の顔を見ると彼はそのまま興奮して起き上がろうとする。医者がそれを止めた。寝かされたまま彼は興奮して饒舌しゃべった。学生も事務長もぽかんとしてそれを聞いている。
「君らに、饒脅迫きょうはくされたって言ってるぜ」
医者が言った。
「脅迫!」
事務長が振り返った。
「責任者は誰だ」
「脅迫じゃない。みんなが見てます」
和久が言った。
「君がしたのか」
「そうじゃない、一人で落っこったんです」
「机の上からだって? 訳を言いたまえ、訳を」
グリエの体に以上はなかった。彼はひとまず車で住いまで送り返されて行った。しかし放課後、武馬と和久は学生課へ呼び出された。言われもせぬににクラス委員の柴田と他の三、四人が証人として彼らの後に離れなかった。
その日は事情を聞かれただけで帰された。それから三日置いてその事件のための緊急教授会が開かれたのだ。
三日たつと学部中の人間が一件について知っていた。
文一9D組の存在は駒場に於いて今や確固たるものであった。
クラスの名は知れても当事者が誰かはそう知れていない。しかし、昼食時食堂に行くとみんなが自分を見ているようで武馬は体裁ていさいが悪い。もつとも、一行の中で最も評判が高いのは和久や武馬より、なんと言っても一緒に立ち上がった山形明子の存在だ。
学生だけではなく、教授連中までがそれを知っているようだ。二日目の英語の授業にやって来た若い助教授は、
「このクラスはなかなか勇ましいそうだね」
笑って言いながら感心したように明子の方ばかりを眺めていた。
あの一件が明子と武馬、そして和久の間を他の学生より近いものにした。教室や他の場所で行き合う時、武馬は彼女と自然に目礼を交わすことが出来る。それだけでも、それを見守る他の仲間が充分うらやましそうな顔をするのを彼は感じた。尤も、それ以上近しく話し合うというところまでではない。がそれだけでも悪い気持ではない。
男の意気地というか、和久への友情と同時、グリエの無礼に応じて立ち上がった武馬だが、その後に見知らぬ彼女が黙ってすくっと立ち上がってくれたということは、後になって見れば見るほど思いがけなく、愉快だった。
彼女がグリエの無礼に怒ると同時に、矢張り和久や自分に対してある共感を感じ、それを大胆に示してくれたことに武馬は全然満足である。ましてそれが明子という美人だ。
かくして尚意気に感じざる男子やあるべきかというところだ。
2022/04/08
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