~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-100)
列車は早朝大阪駅に着いた。席はずっと空かず、武馬はとうとうトランクに腰かけ通しだった。
それでも横の椅子の手すりにもたれて三時間近くねむったようだ。目がめて大阪のプラットホームを見ると、急に家への懐かしさがこみ上げて来る。睡気を払って立ち上がり、トランクを持ち上げてステップを下りた。
電報で約束の時間を知らせてあったが、達之助たつのすけも母の悠子ゆうこの姿も見えない。ひょっとしたら、と思ったが、なんとなく寂しい。急いで神戸行きの電車に乗り換えようと彼は下ろしたままのトランクを持ち直しにかかった時、武馬の乗っていた三等車に続いた二等車の出口から下りて来る人の姿がなんとはんしに眼に入った。
脱いだ上着を右手に、左手にバグを下げて出て来た中年の紳士しんしの後に薄い夏物の和服をつけた男が続き、ステップの下りしな並んだと見る間、片手にしていた扇子せんすの蔭に片手の左手が電光の素早さで動いた。
武馬は未だ睡たい眼をまたたき直して男の手先を見つめた。かえした扇子と同時に、男の左手の抜いた紳士の皮財布がそのふところにすべり込んだ。男の着たの着物を背景に跳るように走って動いた、男のくせに白い細い指先の動きに武馬はしばらく茫然と見とれていた。
その眼の前で紳士も男も、何の表情も浮べず右と左に別れていく。
トランクのホールだーから離れかかった手が、一瞬躊躇ちゅうちょして止った。しかし結局それを離して置いた。どちらを追うべきか、一瞬、武馬は迷った。紳士の姿は階段に見えず、逆の側にいく男のつかう扇子がひらひらと目に映った。
武馬は駈け出して行き、追いすがって声をかけた。聞えぬのか男は振り向かない。横に並び、肩を叩いた武馬に、ようやく男は睡そうな眼つきで顔を向けた。
痩せすぎの、武馬には、品のいい顔に見える。五十を越した顔だ。下町の商人風に刈り上げた頭に白いものが見えた。
武馬にふり返り、男は黙って立っている。が、相手を見守る詮索せんさくの眼つきだけが鋭かった。
「私に、御用ですか、なにか?」
「あなたがたった今したことを僕は見ました」
「なにを」
ゆっくり訊き返したが、男の表情が改まった。
「あなたは、あのお客の白い皮の財布をった。その扇子を使って」
男は暫くの間じっと武馬を見据え、やがて吐き出すように、
「何を言ってやがる」
「お渡しなさい。僕が駅員か警察に届けます」
男はそのまま離れかかる。
「まて」
言った武馬にいきなり顔をつき合わすようにふり返ると、
「yかましい。余計なことをすると後で迷惑がいくぜ、学生のくせにすっこんでろ」
扇子の先で胸を突いた。
よろけながらその腕をとって逆にひねった。
「いてて、はなしやがれ」
男は小さく叫びかかり、急に静かになった。
「返す、返すよ」
男の視線をたどった先に、ホームをやって来る鞄を下げた警官の姿が見える。
武馬は手を離した。男はうかがうように横目で近づいて来る警官を見つめている。何も知らぬ警官は二人の横を黙って過ぎた。それを見送り、ほっと肩を落すと、
「何で言いつけない?」
男は訊いた。
「まず財布を渡したまえ」
「お前さん。このまま横取りするんじゃあるめえな」
男は武馬のバックルの徽章きしょうをじろじろ見ながら言った。
「失敬なことを言うな」
「じゃなんで今のサツを呼ばねえ」
「僕は今急ぐんだ。長いことかかわりになりたくない。うまくその財布があの人に戻ればいい」
「急ぐ?」
「早く合いたい人がいるんだ」
「コレかね」
「馬鹿言え、親父とおふくろだ」
「なるほど、東京の学生さんか」
男は急に、さんと言った。
「嘘だと思うなら、二人で見たと言って届けに行こう。君だって、つかままるのはいやだろう、出来心でやったことだ」
「出来心、じょ、じょうだんじゃねえ」
男は手を振りながら、懐の財布を取り出し、一寸おどけた身ぶりで丁寧に頭を下げて武馬に渡した。
「あっしあね、この道で五本の指に数えられる川内伴治かわうちばんじてえ男です。箱師をはりに腕利きの刑事でかが乗り込んでいて、顔見知りのあっしをうの目たかの目で張ってやりながら到頭とうとう気づかなかったところが、それを学生のあんたが見破ったんだ。どうも全くてえしたがんだ。恐れ入りやした」
男はもう一度、ひざを割って頭を下げる。武馬にすればてえした眼ではない、ただのはずみというものだ。
「あんたなかなか強そうだし本当言やつき出されても文句はねえ。お礼だ。その財布は勝手に始末して下さい」
「馬鹿言え、必ず届けるよ」
「じゃああっしはこのままでよござんすね」
男はぴょんと頭を下げて離れかかったが、また戻って来て、
「あっしあ今言った通りのスリでね、その世界じゃ名の通った男だ。何処かでまたお顔を合わすことがあるかも知れない。その時は見逃すてえより声をかけて下さい。二度とあんたに御用されるなあつろうござんすからね。何かの御縁がありゃ悪いようにはいたしません」
男はひょいと頭を下げるとそのまますたすた離れて行く。声をかけ直す暇がなかった。
扇子を使ってふところをすった腕前も見事だったが、武馬につかまって返すものを返すと後は変に悪びれたところがない。男は息子ぐらい年下の武馬に向かって人なつっこいほどの笑顔をして見せた。なるほど、自分で言った通りその道の五本の指ともなるとああしたものかと武馬は逆に感心した。
しかし言葉の通り、腕ききの刑事が張っていてつかまらなかったのは偶然とはいえ武馬が見つけたのだ。あのまま突き出したら大した手柄だったな、とも思う。」
2022/06/05
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