~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-101)
武馬は受け取った財布を手にして歩き出した。開いて見ないが分厚くふくらんだ手ざわりだ。矢張り五本の指ともなると相手を見ている。
武馬は気づいてあわてて財布をポケットにしまった。持って歩いているところをすらてた当人に見られでもしたら変な嫌疑を受けないでもない。
最初駅員ひとは思ったが、考え直して警官を捜した。どうしても一度ホームを出なければならない。家に向かって心が急くのに、矢張り回り道だ。
改札口を出た構内の出口近くに、警官のボックスを見つけた。
警官二人に、何かものを訊ねてか男が三人いる。武馬は入って行き、
「あのう、これホームで拾ったのですが」
財布を出した。
警官は財布を受け取って中を開いて見た。
「へえ、大した金だぜ!」
言われて仲間の警官と男たちが覗き込む。武馬も驚いた。一万円の札が一センチくらいの厚みで入っている。
「拾ったって、何処でかね」
警官が訊ねる。
「列車の出口に近いホームの柱の蔭でです」
武馬はいい加減に言った。
「余っぽどぼんやりしてたんだなあ、こんな大きな財布をよ」
「本当に拾ったのか」
警官ではなく、平服の男が胡乱気うろんげに言った。見返す武馬に、
「俺は刑事だがね、あんた本当にこれを拾ったのかい」
「言いながらじろじろバックルの校章を見る。
「一寸学生証書を見せてもらおう」
武馬はかっとしたが、黙って学生証を見せた。
「ふむ、テンプラじゃない」
刑事は学生証を返す。
「しかし、こんな財布を落す奴は ──」
「じゃどうしたと言うんです」
「いや、しりゃ ──」
刑事は当惑した顔になったが、尚、胡乱な表情で武馬を見廻している。
「一寸これに署名して」
警官が遺失物届けの用紙を出して言った。
「本当かな、なんだかあんたの言うことは ──」
刑事は尚も言う。このまま終わっても、何か知らないが刑事の変な嫌疑を受けたまま帰るのは不愉快だった。
「本当のことを言いますがね」
武馬が言うと刑事は開き直り、警官は渡しかかった用紙をひっこめた。
「すりがするのを偶然に見たんです。それを追っかけていって取り戻している間に、盗られた人は知らずに行ってしまったんで、こうして届けました」
「すりか!」
「どんな奴だ」
「五十年輩の、着物を着てました。白いものの混じった頭を短くかっている。僕にあやまりながら、自分で川内伴治とか名乗りました。その道の五本の指の一人だそうです」
「川内伴治!」
「畜生」
刑事たちは同音に言った。
「君がつかまえたんか?」
「ええ、偶然、扇子を使いながらしの蔭でするのを見たんです」
「なんで逃したんだ」
「僕、急いでるんで、長くかかり合いになるのは困るんです」
「そいつは、俺たちがずっとマークして来た男なんだ。残念なことをしてくれたなあ、今度こそ放り込んでやれたのに」
「よせよせ」
一人が仲間に言った。
「デカが追いかけ廻してつかまらなかった野郎を素人しろうとの学生に御用されて見ろ、面目丸つぶれだ。いや、どうも有りがとう、それでよくわかりました。何しろものがこんな大きな財布だからねえ、しかも人の0目につく構内だ。変だと思った。いやどうも失礼しました」
簡単な手続きを終えて武馬はそこを出た。
2022/06/05
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