~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-102)
ホームに入り直しようやく神戸行きの電車に乗ることが出来た。いずれにしてもとんだ道草を食ったことになる。
“どうも俺には余計なことに首を突っ込みすぎるぞ”
武馬は思った。」
しかし、あれを見て見ぬふりしてやりすごしたとしたら、その後味の方がよっぽど悪いだろうということは彼自身にもよくわかる。
須磨すまで電車を下り、家への路をたどった。梅雨は上り切ったという訳ではないが、雲の切れ間からのぞく太陽はもうすっかり夏だ。トランクとバッグを両手に駅から道を急ぎながら武馬は一汗かいた。
須磨の駅で捜したが迎えの姿はない。考えてみると、すりの一件で手間を食って、電報で知らせた列車からスムースに乗りついで来たのとは大分時間が遅れている。家で心配しているのではないかと武馬は足を早めた。
家の玄関に立った。ガラス戸に手をかける前、一瞬、武馬は耳をすました。物音が聞こえない。家の中はひっそりと感じられる。武馬は妙に不安になった。わずか二、三か月だが随分長く家を離れていた気がする。昔、漢詩で読んだ支那の学生の帰郷の心境である。
「ただいま帰りました」
声と一緒に戸を開けた。
「おう武馬か」
「お帰り」
達之助の大きな声と母の悠子の声がかさなった。
瞬間、武馬は安心でそのまま膝をつきそうな気持だった。
小走りの足音がし、母の悠子の姿が現われた。
「お帰り」
ひと言だけ言って悠子は武馬を見つめる。いつも言葉少なな母だったが、武馬はその眼の内にある万感を胸に感じていた。
咳払いが聞えたが達之助の姿が見えない。武馬はそれが一寸意外だった。
或いはまた年甲斐もなく何処かで乱闘をやって怪我けがでもして寝ているのかな、と思いながら敷台を踏んだ。
次の間に入った。
茶の間につづいた奥の座敷に、思いがけなく蒲団ふとんを敷いたままその上にあぐらをかいて達之助は坐っている。
「待っていたぞ、遅いじゃないか」
いつもの声で言ったがどうも顔色が青い。
「どうしたんですかお父さん」
悠子が何か言いかける前に、
「なあに、大したことはない」
達之助は言ったが武馬にはどうも大したことがなさそうもなく見えた。
心配そうに探索する眼つきの武馬に、
「念には念を入れての養生でな」
「養生?」
「ええ、あの後東京から帰ったに後、急にまた心臓が悪くなってね、それから寝たきりだったんだけど近頃になってやっと」
大袈裟おおげさに言うな」
あらがうように達之助は言う。しかしどうもその顔にはいつもの完璧かんぺきな自信は感じられなかった。
武馬にとって達之助のこの病状は全く思いがけない。元々、その病があって船を下りたのだけれど流石さすが年齢もあってかまたしの病気がぶり返したらしい。
しかも時期が例の騒動の後と聞いて武馬は責任を感じた。
「どうだ元気か」
「元気です」
「あははは、よろしい、元気そうだ」
達之助は武馬を迎えてすっかり機嫌きげんがよかった。
達之助が船を下りてからは親子三人、水入らずの生活が続いたせいか、こうして三、四か月離れてみるとその間が随分長かったような気がする。
「あの後、何か事件はなかったのか」
「ええ、まあいろいろありました。ぼつぼつ話します」
「そうか、やっとるな」
達之助は大いにうなずく。
その手放しの機嫌の良さが武馬にはかえって病んで衰えた父を感じさせるような気がした。
実際に話したいことはいろいろある。しかしどうも何から話していいかわからない。達之助は少しは武馬の東京の生活を覗いて知っているが、母親の悠子は何も知らずにいる。黙ってはいるが実際は達之助以上に気をつかっているに違いない。母親にもぼつぼつ東京の話もしなくてはならない。
しかしとにかく我が家の畳の上に坐って、武馬はようやく本当に手足を延ばした気持になった。
「あの急行で着いたにじちゃ一寸ちょっと遅かったじゃないか」
達之助は言ったが、余計な心配をかけないようにいい加減な返事で例の一件は話さずにおいた。
2022/06/06
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