~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-103)
帰省してあっという間に半月が過ぎた。
本格的な暑さに入って、暑中見舞という口実で、紫雨お師匠さんへと一緒に明子あきこ に手紙を出した。
折り返しに返事が来た。
差出人が女名前の手紙を悠子は一寸いぶかし気に武馬へ手渡す。
「僕に下宿を世話してくれた赤坂の『川北かわきた』の、その、僕と同じクラスの友だちです」
言い訳のように言ったが、言いながら武馬は一寸母が気になった。
が、悠子はどうやら何も気にしていない。代わりに床の上で新聞を読んでいた達之助が、
「どうだ、あの子は元気でいるか」
「ええ」
と答えたが武馬は次の言葉を捜しながら口をつぐんだ。
帰って来てから、和久や杉についてはいろいろ話しはしたが、肝心かんじんの亡くなった明子の母のえい子ののこされた日記については話していない。
えい子だけならばともかく、その娘の香世かよがいる限り、そして自分と彼女の関係があの日記によってあきらかである限り、武馬は自分がそのことについて知っていることをなんとか達之助に伝えておいた方が気持が晴れるような気がするのだ。
しかし、それを母の悠子の耳に入れていいものかどうかはわからない。うかつに話して、それが彼女に知れた時、その事実が何も知らぬ母の心を傷つけることを武馬は怖れた。
が、これは武馬の想像だが思いがけない巡り合わせで武馬を通じて達之助があのえい子の子や明子、香世たちと再度係り合いを持つようになった時、武馬には黙っていながら達之助が何らかの気持の負担のようなものを持っているに違いなかった。それを、どうやら半人前になりかかった社会人として武馬が心得ているといおうことで、彼は達之助の心の内の問題に今まで以上に接近し、理解する、と言うよりも父親の内面に触れ合えるような気がした。
それが自分の誕生以前にあったまがいない事実であればあるほど、武馬は父を咎めようとは思わない。
当初は驚き、当惑し、面映ゆく面くらったが、しかし考え直してみるとそれが父という一人の人間の生涯にける、かけ値のない真実だったということは彼にはよくわかる。
が、それを母の悠子がどうとるかということは別の問題だった。
ともかくそのことが、もし達之助の心の内に何かのしこりの形になってどどこおっているとしたら、武馬は自分がそのことを理解? したことを伝えてそれを解消してやりたいと思った。
しかし一つのむつまじい家族の内であっても、それは顕かに父と息子だけの問題なのだ。
母が出かけて留守の間、達之助と二人だけになることはよくあった。しかしどうもそれを言い出すきっかけがない。そのまま日数がたっていった。

八月に入ってのある夕方、武馬の開いた夕刊の新聞に例の「川北」をめぐって云々うんぬんされた疑獄事件の終幕が報道されてあった。
新聞によれば検察庁の努力にも拘わらず、疑獄事件は最初の決め手を欠いて、要するに大臣の桜井たちの白ということで第一段階の落着をしたことになっていえう。
別の新聞には事件の発端から今日までの概略の説明があり、事件の蔭のヒロイン、「川北」の女将えい子の自殺が検察側を第一につまづかせ、彼女の思惑? 通り結局は桜井を救ったとあった。
武馬は読みながら唇を噛んだ。新聞のそうした解釈は、何故かえい子の死を大層傷つけるように思われてならない。
武馬はえい子の自殺を聞いて紫雨お師匠さんが言った言葉を思い出してみた。そして同じ座敷で一言、達之助のもらした一人ごとを。
しかしいずれにしても武馬が憎んだのは尻尾をつかまえかけながら」、ついにぬけぬけと逃げおおせようとしている当の大臣の桜井だった。ある記者に食い下がられ「川北」のえい子の自殺について訊ねられながら、桜井はぬけぬけと、あれはノイローゼがこうじての事故だったろうとさえ言っている。
“一体、案のために死んだりしたんだ!”
改めて武馬は思った。
あとに取り残されて苦労している香世や明子のためにも、武馬は写真の中で大口を開いて笑っている男を心から憎んだ。
武馬の手渡した別の新聞を達之助はゆっくり手にして拡げる。母の悠子は勝手で夕食の後をかたづけていた。
新聞を手にしながら武馬は同じ記事を読む父親の顔を横から見つめていた。
記事の見出しに気づいて眼を止めながら、一瞬だけ達之助は表情を動かした。が、その後は普段と変わらぬ横顔で新聞を眺め渡している。やがて別の新聞をとり直そうとする父に、
「『川北』の事件も、とうとう駄目でしたね。またしても政治屋たちの勝ちだ」
達之助は黙って問い返すように彼を見返した。
「僕はその男を憎みます。自分の欲と利権のために、他人を犠牲にしておいて、何が、なにがノイローゼだ。明子さんや香世さんのお母さんはしの男のために殺されたんだ」
達之助は同じように武馬を見返す。
「なんていう政治家ばかりがいるんだ。こいつが今こんな大口をたたける奴ですか。明子さんのお母さんは一体何のために死んだんだ」
「何のためでもない。それはあの女自身の問題だったんだろう、きっと」
新聞を置きながら外すように達之助は言う。
今度は武馬が彼を見つめ直した。一瞬、眼をそらした達之助の横顔の内に武馬は浮んですぐるある表情の影を感じた。武馬の胸に何かがこみ上げて来た。
坐り直しようにして達之助に向かった。
「お父さん、僕は、知っています」
区切りながら、確かめるように、低い声で武馬は言った。
達之助はゆっくりふり返るようにして武馬を見直した。そして同じようにゆっくり、
「そうか」
と言った。
一寸の間沈黙がある。
勝手で悠子がしまいものをする物音が聞こえていた。軒先の風鈴ふうりんの音が急に耳にあった。
「外は涼しそうだな。少し散歩にいこうか」
達之助が言った。
2022/06/06
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