~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-104)
家を出、達之助と武馬は山の手の静かな道を歩いた。夜風が出ていて涼しい。通りから松の木越しに海が見えその向うに灯の点った淡路島あわじしまが美しかった。
家を出たきり二人は黙って歩いている。武馬がああ言った時、それをそのまま外へ誘うように散歩しようと言ったのは達之助だが、夜風に吹かれながら例によってステッキをつき気持ちよさそうに歩いているだけだ。
とにかくこの機会に、家に帰るまでには例の話をしなくてはならないと武馬は思った。
「おい見ろ、花火だ」
達之助に言われて見た西の空に、遠い花火が夜空に上っては消えた。風に乗って、遅れて遠い花火の音が伝って来る。
二人は立ち止ったまま、木の間がくれ、夜の空と海をいろどって消える花火に見とれていた。
武馬はふと、自分が遠い昔、まだほんの小さかった頃、達之助に抱かれて海の花火を見たことがあるような気になった。いや確かにそんな遠い記憶がある。
そう思うと、相手の顔も定かでないこの薄暗がりの中で、武馬は急に改めて父親が自分にとって懐かしいものである感慨に襲われるのだった。
「僕はいつか、ずっと昔、お父さんに抱かれて海の花火を見たことがあるね」
「そうだったかな」
達之助は訊き返すように言う。
「確かにある。僕、覚えているような気がする。お母さんも居た。お父さんは船長の制服を着てた。その肩章が体に当たって痛かった。どこかの、料理屋さんみたいなところです」
「ふむ」
達之助は頷く。
「── でも、あの人にはそんな思い出はきっとないな」
暗闇の中で達之助が身じろぐのがわかった。
「お父さん、僕は知ってます。香世さんのことを」
「そうか ──」
「本当言うと、こんな薄暗がりでしめっぽく言わずに僕あ昼間でもちゃんと同じことが言えたつもりです。ただ、お母さんはこのことには関係のない人だ」
「そうだ」
しわぶきして言った。
「亡くなった明子さんのお母さんの遺した日記に、そのことが書いてありました。僕が初めて会った時に、もうあの人はお父さんのことをはっきり思い出したそうです。香世さんはまだそのことを知りません。明子さんと僕だけが知ってます。しかし遠からず店の方が落着いた時に明子さんが知らすでしょう。けど、全く、偶然という奴だなあ ──」
「本当に、思いがけなかった」
ゆっくり、一人ごつように達之助は言った。
松の間に、また遠く七色の花火が開いて散った。達之助はそのままゆっくり歩き出す。
「今思えば、お前の入学式に明子さんを見た時、思わず自分の眼を疑った。しかしまさかとは思った」
妙に荘重な口調だった。そんな父親は苦手だ。
下宿のお師匠さんに言わせれば、これも因縁ということになりますよ」
武馬は二人の間の空気をひきたてるように言った。
「驚いただろうな」
「驚きました」
「怒ったか? どうしてです。それは、意外じゃありましたけど、僕がどうしてそれを怒ったりするんです。だってあれはみんなその時のお父さんには大切な真実だったんでしょう。亡くなった明子さんのお母さんは、二人にそう言っていたそうです。一生に、二度だけ本当の恋愛をした、そして二人が生まれたって」
言葉はなく達之助は長い歎息ためいきのように息を吐いた。
「僕は、僕がそのことについて知っている、そして、そのことを理解している、ということをお父さんに知っててもらいたかったんです。そうしないと、なんとなく気がかりのような気がしたんです。僕と香世さんとは、いろいろなことで血のつながり通りの間にはなれないでしょう。しかしそれを知った以上、僕は、親しい他人以上にあの人のためになって上げたいと思います。精一杯そうするためにも、僕がそれを知ってることをお父さんにわかってもらいたいと思ったんです」
自分が父に向かってこんなに話したことはかつて無かっただろう、と武馬は思った。その代わり、達之助の方が黙っていた。黙ってはいるが、父が武馬の言ったことで絶対に不快を感じているということはないと思った。
「そうか、お前は本当にそう思っているのか」
問い直す、というよりは自分に向かって言い聞かせるようにゆっくり達之助は言った。
「わしがお前に今言うべき言葉は何なのかな。矢張り有りがとうと言ったらいいのだろうな」
「変だな、そんなの」
「いや、そうだ。そうなのだ。有りがとう本当に有りがとう」
達之助は言った。
二人は黙ったまま松林の道を歩いていった。が、武馬の胸の間にわだかまっていたものが今は全くなくなっていた。
そしてふと彼は、ようやく父から離れて一人前になりかかった自分を感じたような気がしていたのだ。
2022/06/07
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