~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-105)
暫くして、
「お父さん、明子さんのお母さんが亡くなった時、どんな気がしました」
武馬が訊いた。訊いてしまってから随分残酷な質問をしたような気がした。達之助は一寸の間黙っている。
「何故だ?」
「何故って、僕から考えるとあの時二人のことを感じたような気がするんです」
「何故だか、当り前のことが起こったような気持だった ──」
「どうして?」
「あの人は、無理な生き方をして来ていたな。或いは、それは二人の子供のためだっただろう。いろいろなことが彼女をそうした生き方に押し流したのかも知れない。或いはその責任はわしにもあったかも知れぬ。が、結局、二人は違う世界に生きている人間だったな。しかし、すべて、わしがお前のお母さんに出会う前のことだ」
「しかし、あの人はそれですんだのですか」
「それは知らない。が、暫くして、人伝に誰かまた好きな人が出来たということを聞いた。そしてその人が間もなく事故で死んだということも。おそらくそれが明子さんの父親になる人だろう」
山の手から下手へ下りる分かれ道で立ち止り、
「もう少し歩くか?」
「お父さんは」
「俺? 俺は大丈夫だ。余り体のことは心配するな」
その時だけいつもの調子で不服そうに言った。
歩き出しながら、
「あの人の日記に何が書いてあったか知らんが、とにかく随分昔の話だ。わしがまだ二等運転士になりたての頃だった。
会社が初めて開いた航路から帰って祝いの招待の席であの女に会った。寂しそうなところのある、が勝気な女だったな。若い同士ですぐにかっとなった。また一航海終えて戻ってみたが、二人の間は前以上で変わりなかった。今時と違ってその頃はあの世界もそれほど我々にも閉鎖的じゃなかったが、これでもこちらはただの若僧わかぞうだ。しかしかえってそれが二人の間を熱くしてしまった。船に乗る気になれず、わざと怪我をして一航海見送ったりさえしたこともある。
そんなことが、綱渡りのように一年ぐらいつづいたろうか。彼女の見の上にもあの世界なりの厄介やっかいな問題が起って来ていた。
最後に、一番世話になっていた船長にそれがわかった。それでもその船長は黙ってわしを見ていてくれた。ある航海で当直の晩、女のことを考えてわしはぼんやりしたまま気象情報の整理を遅らせて船を時化しけの中へ突っ込ました。その時、波をかぶる甲板で船長はわしを初めて殴り倒し、『お前はそれでも一人前の船乗りか』と言った。その時だ、決心したのは。結局は不可能なことに尚こだわりながら女々しく生きて、そんな具合に他人をさえ危うくして一体いいのか。男らしくそれを断ち切れ、と。
陸に上がって彼女と会った。彼女に会う前に、二人の逢瀬に使っていた、仲に入ってなにくれと世話をやいてくれたお茶屋の女将おかみにあの世界で彼女の置かれている身の上と、女将なりの、二人のために親身の忠告を聞かされた。それに従った訳じゃなしに、自分の考えていたことを彼女に話した。
彼女はわかったと頷いたよ。しかしその時とうにお腹の中に子供がいたんだな。二人ともそれを知らずにいたのだ。
わしはそれ切りなんとかみんな忘れてしまおうと、船長のはからいで一番遠い航海の船に替えてもらって外国へ出て行った。その後彼女の身の上に起きたことは二年近くたって聞いたのだ。
その時も子供のことは知らずにいた。香世のことを聞いたのは、わしがお前のお母さんと一緒になってお前が出来た後、東京で偶然に以前世話になったお茶屋の女将に会って聞かされた。
お前さんはあの女にもう何することも、言うこともいらない。彼女は懸命に一人の腕でやっている。余計な手だてはかえってそれをくじくだろうと言われ、卑怯のようだがわしはその言葉に従った。香世やあの人には悪かったが、私にはお前やお母さんが大切だったのだ」
武馬は唇を噛んだ。達之助の言うことはよくわかった。が、それが誰でもない。自分自身のために父がとった行為だったということを知りながらも、ほっそりと美しく弱々し気なあの香世のことを想うと武馬は彼女のためにどうにもならぬ胸が痛んだ。
「そうは言っても、わしに責任の全くないということでは決してない。と言っても、今のわしには香世さんや、亡くなった彼女の母親のために何もしてやれないのだ。これから先だって同じことだろう。わしには金もないし、それにどうやら健康でもない」
達之助は初めて弱気、というよりは自分の現実を素直に認めたような口調で言った。
「しかしお父さん、僕がいます」
武馬は言った。
歩きながら、体を開くようにして達之助はじっと武馬を見つめた。
「そうだ、そうなのだよ」
繰り返すように言って達之助は立ち止った。
「お前に頼む。友だちとして、姉弟として、どうか香世の力になってやってくれ。自分のつぐないをお前に頼むとはだらしのない父親だ。しかし、それが、それが一番いいような気がする」
暗がりの中で、達之助は見定めるようにじっと武馬を見つめながら立ちつくしていた。
「わかってます」
「僕は、このことをあした形で知れたことが幸せだったと思ってます。本当に、僕は僕にとって香世さんという人がいるということで、お父さんに感謝したいような気持なんです」
「武馬!」
とだけ静かに言った。
その後、海に向かって大きく息を吐くと、ステッキを払うようにして達之助は歩き出した。
父と自分の間にはっきり触れ合い通い合って交わすものを感じたと思った。武馬は今、本当に心から満足し、微笑することが出来たのだ。
2022/06/08
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