~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-106)
またたく間に日がたち夏休みの終りが近づいた。例年を上廻るという暑さがいつまでもつづき、恢復かいふくに向かっているとはいえ、達之助には暑さがこたえるようだった。
あの夜以来、二人はあのことについて何も口にしない。しかしそれで充分通い合うものがあった。
あい変わらず強がりを言ってはいたが、達之助のにとって一番気がかりだった大切なことがらを、息子の武馬に預けたということで。達之助が嘗てと違って、息子の自分に一目置くというか、ある信頼感をよせているのが武馬には面映ゆいほど感じられた。
夏休みが終われば当然、彼はまた達之助と悠子の元をたねばならず、そうして東京にはまた数多くのことがらが彼を待ちうけている。
合宿があり、一学期の中間試験がある。試験を思うと少々憂鬱ゆうつだった。ある程度の準備はしているが、大学に入って初めて受ける試験がどれほどのものかは見当がつかない。一応、ラグビー部の上級生たちからの知識を元に、同じく彼らから受けたつけ焼刃の尤も効果ある対策を考えてはいたが矢張り不安だった。
杉にえらそうな説教をしたが、その自分が落第したのでは話にならない。夏休みの終りに近づいたころから武馬はテキストと首っ引きを始めた。
ラクビー部からの合宿の通知が来た。八月二十三日の午後六時までに山中湖にある東大寮に集合せよとある。葉書を見て、
「なんだ、八月一杯家にいるんじゃないのか」
達之助は残念そうな顔をした。
家にも居たいが、また大学の生活に戻ると思うと武馬は矢張り胸がおどった。第一、一日二日早目に出て合宿入りする前に赤坂に寄って行くつもりだ。勿論明子に会うだろう。それに、入部して僅かしかたたぬ間に休みとなったが、合宿で初めて本格的に部の仲間とのつき合いも出来るようになる。
出発の二、三日前、用で大阪に出かけるという悠子について武馬も出かけた。別に用事は無かったが、父の達之助とは別に、僅かな時間でも母と二人だけでいて見たい気がしたのだ。
いつも口数の少ない母だったが、二人きりで電車に乗ると流石さすがに悠子は嬉しそうに見えた。達之助が船に乗っている間は、随分こうして二人だけで暮らしたのに、こうしているとそれも大層遠い以前のことのように思われる。
武馬はうかがうように、隣りの母の横顔を覗いて見る。母はまだ若々しく彼の眼には美しく見えた。武馬はふと知らぬ間に自分の母と明子の母の死んだえい子をなんとはなしに比べて考えていた。
比べてどうということではなし。、自分のこの母と、香世や明子のあの母と、父がその二人を愛し、そして今日自分だけが達之助を父と言えることに武馬は妙にもどかしいようなものを感じもする。
自分を見つめる武馬の眼を面映ゆそうに微笑して見返しながら、
「あなたの東京のお友だちにまた早く会いたいでしょうね」
「え?」
聴き直したが、一寸照れた。
「学校では沢山たくさんお友だちが出来て?」
「そりゃあ」
「女のお友だちも」
微笑わらって、眼だけは一瞬真面目に訊く。
「まあ、います」
「そう、どんな方かしら」
「いや、まだそんな ──」
言いかけたが、何がまだそんな・・・なのか武馬は一人で迷った。
微笑して頷いたまま悠子は何も言わない。武馬はふと悠子と明子とが何かで対面した時のことを想像して妙に当惑した気持になったのだ。
2022/06/09
Next