~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-107)
のあった遠縁の親戚の家を辞した後買いものがてらに、夕方の心斎橋筋しんさいばしを歩いた。
二人で入った喫茶店を出て来た時、向うからやって来る男と何の気なしに眼が合った。瞬間男の顔に困ったような影が走る。一度、そ知らぬ顔で視線を離しかかったが、眼を戻すと男は武馬に向かってニヤリと笑う。
やと思い出した。大阪駅のあの男だ。今日は普通の背広を着込んでいるので一寸の間気がつかなかった。
男は武馬の母を気にした様子だが、観念したような顔で向うから近づいて来る。武馬は武馬で、こんな男とのつき合いを母には見せたくない。一寸した身ぶりで母を置いて離れた。
「いや。どうもお見それしやした。この前はどうも」
「まだこっちにいるんですか」
「へえ、なにね、夏の甲子園大会で一寸かせがしてもらって、今日はぶらぶら遊んでます」
「甲子園? それじゃ君は集まって来る高校生のふところをやったのか」
「いやいや、餓鬼がきを、いえ高校生なんぞをやったりはしませんよ」
「なににしたって、あんなところでやるのは良くないよ」
「へ、どこでやったってすりはすりでさ。しかしまあね、へえ」
男は相変わらず持っていた扇子でぽんと肩を叩いて笑った。
「とにかく、あとで警官にあやしまれてとうとう君のことを話したらものすごくくやしがってたぜ。つき出しゃ大手柄だったそうだ」
「そりゃそうですよ。残念でした」
真顔で言った後男はにやにや笑って言う。
「とにかく、今後もお手柔らかに。どうも合縁奇縁、あなたとはよく顔を合わせそうだ」
そのままひょいと頭を下げると人ごみに消えていった。
戻って来た武馬に、
「どなた。知り合いの方?」
流石不審そうに言う。
「ええ、ちょっと」
「お友だちのお父さん?」
「いえ」
「何してらっしゃるの?」
「そ、その。すりです。五本の指の一人で」
「すり!」
悠子は仰天ぎょうてんした顔で、男の消えた方角と武馬の顔を急いで見比みくらべた。

武馬の上京の日が来た。荷物をまとめ両親の前に手をついた。
「それじゃ帰ります、じゃない、行きます」
「そうか、行くか」
一緒に立とうとする達之助に、
「お父さんはどうかそのままでいて下さい。今日は外は暑いから」
「人をいつまでも病人扱いするな」
一喝いっかつするようにして達之助も悠子と並んで立ち上がる。
「省線の駅まで送ろう」
三人並んで駅まで歩いた。
いき違った近所の人が武馬の様子を見て、
「おや、もう東京の方へおたちですか」
「はあ、いっこうに親の元にはいつきませんわ」
冗談のように言って達之助は笑ったが、半分くらいは真情と感じられた。
確かに、夏休み一杯とは言えなくても合宿入りのぎりぎりまで家にいたい。が、矢張りその前に赤坂へ寄って明子に、そして香世やお師匠さんにも会っていきたかった、明子が思い切って電車に乗り込んで横浜まで送ってくれたことを思い出しはしたが、それも一月半も以前のことだ。顔を合わさず時がたっているというのは妙に不安なものだ。
故郷の家にも、東京の下宿先にも心温かく自分を迎えてくれる人々が待っているということを歩きながら武馬は改めて胸の内に感じていた。
電車が来、武馬はトランクを持って立った。急いでもうひとつのバッグを取り上げ一瞬躊躇したような仕草で達之助は手渡しながら、
「一寸、俺だけ大阪までいくか」
「いや、いいです」
「あなた」
悠子に袖を引かれその瞬間だけ達之助は子供っぽいほど無念そうな顔になった。
扉が閉まり、そのガラス越しに武馬はもう一度確かめるように達之助に向かって頷いた。武馬を見返したその顔が、「頼むぞ」と言っていた。
2022/06/10
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