~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-108)
夜に入って、列車は横浜を通過した。杉のこともあったが機会は別につくろうと思う。
横浜を通り過ぎ東京に近づくとかえって心がはやる。やがて列車は終点の東京に到着する。東京の灯が眼に痛かった。ひっさらうようにしてトランクとバッグを持ち上げ、東京から新橋へ戻る省線のホームに向かって武馬は速足、というよりは走った。
時刻は十時に近い。赤坂に戻ってそのまま明子の所へ顔を出すわけに居いかない。下宿のお師匠さんの家に戻って、帰京の挨拶と報告をしましその後うまい口実をつくって外へ出なくてはならない。遅くなりすぎると出にくくなるに違いない。
新橋へ下りてもバスがなかなか来ないのでいらいらした。バスから下りると下宿に向かって武馬は走った。東京は神戸よりも暑い。走りながら武馬はひどく汗をかいた。
お師匠さんには帰京を前もって電報で知らせれある。ひょっとしてお師匠さんが気を利かして明子にそれを知らせておいてくれはしないか、あるいはお師匠さんの家に明子が来ているのではないか、と武馬は期待した。
坂を上り、玄関の戸を開けた。途端に、
「お帰りかい。武馬さんかい」
奥でお師匠さんの声がする。
「武馬です。ただいま帰りました」
「足音があって近づき、お師匠さんと女中のお勝さんの顔がのぞいた。
「ああお帰り、元気そうだねえ、安心安心」
「ただいま。またお世話になります」
「なあにいってるんだ、他人行儀に。ほらお前さん、カバンもってお上げよ」
お勝さんをせかしながらお師匠さんは先に立って歩き出す。帰って来た武馬を見てすっかり機嫌がよさそうだった。
茶の間に入ったが明子の姿はない。武馬は一寸がっかりした。
冷たい飲みものを運びながら、
「汽車旅でよごれただろ、お風呂がいてるよ」
汗をかいて体もよごれていたがそんなことをして時間を食ってはいられない。
「お勝さん、タオルは出てるかい」
お師匠さんは奥に向かって言ってくれたが武馬はもじもじした。
「どうしたの、お入んなさいよ。いいよいいよ、お風呂が汚れても」
言ったがぽんと額を叩いて、
「はいはい、どうも不粋ぶすいに気づきませんで。『川北』には電報したけど、明ちゃんなんだかお友だちと何処かへ旅行にいってていないそうだよ」
「お友だち?」
「なんだいその眼は。大丈夫、高校の頃の女同士のお仲間だそうだよ。私あ気を利かしてそれまで確かめておきましたからね、どうぞ今夜のところはご勘弁を。はい」
紫雨師匠はにやりと笑って言う。そこまで言われてしまうと武馬の形がない。連れが誰であるにしろ、明子が出かけて家に居ないと聞いて少々がっかりした。
「それで武馬さん、お風呂は入るの、どうなのさ」
「入ります、入ります」
あわてて立つ武馬にお師匠さんは声を立てて笑うと、
「いいねえ」
毎度ながら武馬は頬がほてった。
2022/06/10
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