~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-109)
一風呂浴びるとさっぱりした。彼のためにビールが出ている。
「さあ一つ、御帰還を祝ってね」
お師匠さんが武馬についだ。
「川北に行って見るかい。詳しいことは香世さんに聞いてごらん。いつ帰って来るか訊くのを忘れてた」
「いいんです」
「ほんとかね」
「それにもう遅いもの」
「それはかまわないだろう、商売しているんだからね。でも、ま、明日でも行って見るさ」
武馬は香世と二人だけで顔を合わせる自分を想像したみた。
「それはそうと、雪葉はどうしてます」
「あんたも、帰って来るとまた他人事でいろいろ心配があるんだねえ。一昨日おさらいに来てたけど、元気がないねえ。前以上に無口になってる。例の杉さんてのはその後どうなったの」
「帰る前に寄ったきりなんですが」
「けどあんたも二人の中を預かるだけ預かっといていつまでもそのままてのは雪葉も可哀そうだよ」
「勿論やります」
「何をさ」
「杉が直ったらもう一度二人を会わして」
「それで」
「それでって」
「一夜を添わしてかい」
「い、いや、そんなことは。とにかく杉は自分の気持をごま化さずにあの人のことを考え直す必要がある」
「ま、どんなつもりか知らないけれど、そうしてる間にも雪葉には雪葉でいろんな問題が持ち込まれてあの子はそれをあんたとの約束のためになんとかかわしてるんだから」
武馬は頷いた。どうも矢張り面倒なことを自ら背負い込んだとは思う。
「ま、色ごとの仲もちはね、喧嘩の仲裁なんぞの倍もむつかしいもんですよ。それで苦労するのもいい勉強じゃありますがね」
煙草をひねりながら、
「だけどさ、人のこともそうだが、いったいあんたたちはどうなんだい」
お師匠さんは言った。
寝る前に横浜の和久に電話した。辰さんが出た。声だけで武馬とわかり、
「お帰りなさいまし。お待ちしてやしたよ」
言うと、
旦那だんな、旦那」
大声で呼んでいる。
「声を聞いた感じじゃ相変わらず元気そうだな」
愉快そうに和久も言った。
「君は?」
「同じだ。夏の間にいろいろあった。いずれ会ってゆっくり話す。それはそうと杉が退院したぜ」
「へえ、もうかい」
「君のことを想って二日ほど前容態を訊ねに病院へ電話したらその日の朝退院したそうだ。なんでもおそろそく癒りが早いって言ってた」
「よかったなあ。実はそのことでも君の知恵をかりたいんだ」
「恋愛の相談は君にまかしとくぜ」
言って和久は笑った。
2022/06/11
Next