~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-110)
翌日の夕方近く、「川北」に行ってみた。奥へ知らせた女中が上へどうぞと言う。うっかり靴を脱いで上りかけ、武馬ははっとした。明子が居ないところで、自分が可世に向かってどんな顔をすればいいのかわからない。
奥の茶の間に通された。すだれの向うにかけひの水が涼しそうな音をたてている。
やがて香世が現われた。
「帰って来たので、一寸御挨拶ごあいさつに来ました」
頭を下げた武馬を、微笑しながら彼女は覗くような眼で見つめた。
暑さがあってか香世は前よりせて見える。相変わらず透き通るような白いはだに、眼と眉が涼しい。武馬は気づかれぬよう、確かめるように彼女を見つめ直した。眼のあたりの印象が達之助と本当によく似ている。
そのいかにも女らしい美しい人を、自分が本当は姉と呼んでいいのだと思うと、武馬は一寸心が熱くなった。
「あいにく明子が丁度出かけてしまって。もう二、三日したら帰る予定ではいったのですが」
「はあ、でも僕明日から山中湖の合宿に入ります」
「あら、折角せっかくなのに、それじゃまたいれ違いなんですね。明ちゃんも馬鹿ねえ」
「お店のお仕事の方はどうなんですか」
思い直して訊ねた。香世は問い返すように微笑した。
香世にそんなことを言うのは初めてだ。達之助との約束はあっても、学生の自分がそんなことを訊いて実際にはどうなる訳でもない。言ってから武馬は面映くなった。
「ええ、まあ、お蔭さまで」
香世は同じ微笑で言う。
“父に頼まれましたから ──”と危うく言いかけて止めた。
冷たいものが出され、武馬がそれを口に運ぶ間、香世は同じように彼を見守っている。武馬が眼を上げ視線が出会うと、気づいたように眼をそらしたが、また見直して見た武馬の眼を、彼女の視線がいつも迎えるように見つめていた。
武馬の体の奥で次第に何かがみゃくくを打ち溢れ出ようとしていた。
“これが姉妹という血なのか”
武馬は思って体が熱くなった。しかし明子との約束がある。今それを言っていいのかどうかを彼は知らない。それに、言えと言われても、気恥ずかしさというか、ある怖ろしいような感慨が彼の舌を縛りつけるに違いなかった。
そんな武馬を感じてか、努めたように香世は庭に向かって眼をそらせた。会話がぎこちなく途切れた。その間を救うように、
「お家へお帰りになったらやっぱりくつろげたでしょう。お父さまお母さまお元気でしたか」
香世は言った。言ってから一瞬おびえたような影がその眼の内を走った。武馬はそれを感じたと思った。今、彼の胸の内にある予感があった。
それきり二人の会話はまた止った。
武馬の体の内に脈打っていたものが眼の前の香世に伝わろうとしていた。武馬は、彼女がそのことを感じている、と思った。しかし、
「ぼ、ぼく、そろそろ失礼します」
その緊張から逃げるように武馬は言った。
「そう」
一瞬、おびえたような影が走り、遠く願うような表情が彼女の眼の内に浮んだ。武馬はあわててその眼から視線をそらした。
“俺だけじゃ駄目だ。明子さんさえいてくれればなあ”
しきりにそう思った。自分を見つめている香世に会釈して立ちかけた。
2022/06/12
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