~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-111)
「武馬さん」
香世が言った。その声に思い切ったような表情があった。武馬はふり返り、そのまま二人は暫くの間じっと見つめ合ったままでいた。
武馬の体の内で脈打っていたものが今、溢れようと「していた。
“俺はこのことを予感していた。香世さんは知っている。或いは明子よりもっと前から ──”
「武馬さん ──」
落着いて低い声だった。
「香世さん」
武馬も言った。たとい自分の予感が外れていても、今、自分がそのことを言わなければならないおということを何故か衝動のように武馬は感じたのだ。
「僕は、あなたのことを知ってます。あなたは御存知ですか」
坐り直してゆっくり確かめるように彼は言った。
「あなたが、あなたが実は僕の姉さんである筈の人だということを」
一杯に見開いた瞳で武馬を見つめながら香世は静かに頷いた。体がふるえていた。同じように溢れ出そうな何かを必死にこらえているような表情だった。
「亡くなったお母さんの日記に書いてあったのを、明子さんが僕に見せてくれました。あなたにはお店の方が落ち着いてから話そうと約束して。明子さんが教えたのですか?」
香世はこわばったような微笑で頷き返した。
「驚いたでしょう。僕も驚きました」
いたわるように武馬は言った。
「でも、でも僕嬉しいような気がしました」
香世は問い返すように彼を見つめ、今にも泣きそうな表情で、香世は微笑わらった。
「あなたがお帰りになった後、明子が同じように母の日記を見せて教えてくれました。あなたがいらっしゃらない間に、いろいろ考えて気持を落ち着けられるようにと思ったのだそうです。でも、でも私がそう聞いた時飛んで行ってあなたにお会いしたかったの。あなたのお父さまよりも、あなたをもう一度よく見たいと心から思いました」
一息に言い、彼女はあえぐように息をついだ。
「私、誰かに、誰かに本当に感謝したい気持です。だって、あなたが、武馬さんが私の弟だなんて」
「僕も、同じでした」
そのまま二人は真正面、確かめるようにいつまでもじっと互いの眼の内に見入っていた。やがて香世の見開かれたままの黒いひとみがうるみ、光るものが頬を伝って流れた。武馬はそれを心から落着いたすがすがしい感動で見つめていた。
建物の内庭に迷い込んで来た小さいせみが一匹、すだれにとまって鳴き始める。
「僕は、家に帰って二人だけの散歩の時父に僕がそのことを知っていると話しました。父はそれを聞いて心底安心していました。亡くなったお母さんのことを父の口から詳しく聞いたんです。どうしようもない事情があったのだと父は言いました。お母さんもそのことは御存知だったはずです。しかし、香世さんは、矢張り父をとがめるでしょうね。咎めても仕方ないと思いますし」
「いいえ、どうして」
香世はかぶりを振った。
「そうですか、本当ですか。父がそれを聞けば喜ぶでしょう」
「私には居なかった筈のお父さまです。それに、あなたという人までが居たのですもの」
なお伝わろうとする涙をおさえながら香世は晴々とした表情で笑ったのだ。
「父は僕に、頼む、と言いました。お前の姉さんを頼む、と。僕はやります。どうかさせて下さい」
武馬は茶の間の仏壇の横に置かれてある、亡くなったえい子の写真をふり返って見た。
「お葬式の時、明子さんや、あなたのお友だちとして僕は誓ったけど、もう一度、あなたの、姉さんのために誓います」
香世は頷き同じようにえい子の写真をふり返った。もう一度見つめ合った時、武馬は今まで体の内に脈打っていたものが香世に内にはっきりと伝わって通うのを感じていた。
用事が出来てか女中が部屋の外から香世に声をかけた。そろそろ晩の仕事の用意もあるらしい。
「僕はもう失礼します」
武馬は立った。
「どうして。まだ ──」
その行方をさえぎるように香世は武馬を見上げながら立ち上がった。
「もっと居て下さい」
「でも、僕なんだか照れくさい。君に」
二人はもう一度見つめあったまま、ほとんど同時に頬を染めていた。
「川北」を出た。
あたりに黄昏たそがれがひろがっている。
お師匠さんの家に向かって坂を上りながら武馬はかつてない満たされた気持でいる自分を感じていた。
何かに向かって、大声に怒鳴どなるか唄ってやりたい気持だった。
適当な言葉が出ず、辺りに人の居ないのを見て、
「万歳”!」
武馬は叫んだ。
2022/06/12
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