~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-112)
翌日、武馬は山中湖の合宿に向かって出発した。明子に会わずに来たのは心残りだったが、胸の内にわだかまっていたものを香世と言い交したことで彼の気持は明るかった。
新宿から電車に乗った。夏休みも終りに近いが、それでも二、三組これからキャンプに出かけるようななりの連中が見える。
たとい彼らと行く先は同じでも武馬を待っている生活は少しばかり違っている。中学から高校の途中までやっていた陸上競技はあくまでも個人スポーツで、合宿とはいえそれぞれが自分のペースをもって何日かを過ごす。しかし団体競技のラグビーは全く違っている筈だ。高校時代ラグビーやサッカ-の連中の合宿を見ていても、それが大分滅茶苦茶な、いわゆる強化合宿で、先輩に尻を叩かれながらあごを出して走らされている連中が、隣りのフールドやトラックで一人一人のペースでゆっくり練習している武馬たちをうらやましそうに眺めていたのを覚えている。
大体彼らが朝起きをし飯を食わずにグラウンドを駈け廻り、柔軟体操をやったりすることも、日頃うるさく競技衛生について専門的なコーチを受けている陸上競技部員からすれば、実際はあって益のないことに思われたのだが。
しかし新入りの武馬がそんな事を言っても仕方がない。とにかくみんなの中でへばらずにやるだけのことだ。夏休み中、特別そのために摂生をしなかったが不摂生もしてはいない、まあ、なんとかやれるだろう。
合宿の後にせまって試験もあるが、そのための参考書も持っては来たが、合宿中はそんなものを読んでも結局頭に入らないだろうことは想像がつく。少々不安な試験の前に、他のすべてをしめ出して、スポーツだけに打ち込んだ十日間を過ごすのは半分やけみたいでいいだろうと武馬は思った。
電車の出発を待ちながら買った夕刊を見終え、することもなく、バッグから参考書とテキストを出して眺めて見た。矢張り気が入らない。
「おい」と言う声に顔を上げた。
二年生の森が立っている。空いていた前に坐ると、にやにや笑いながら、
「そんな本今から読んだって間に合やしないよ。合宿を前にしてあきらめの悪い奴だ」
どうも疳にさわることを言う。しかしどうも本当だから、武馬は黙って本をバッの中に戻した。
「合宿は、つらいですか」
「さあな」
森は先輩ぶって言う。
「ま、要領だな。さぼれって言うんじゃないけど、終始精一杯やってちゃ誰だって終りまでもたないよ。特に一年生の時はただ待っている時にでも神経を使うからな。しかし君なら大丈夫だ」
どういう意味か知らないが森は当り前の顔をして言った。
「向うは下界より涼しいからね。秋に入って暑い日の試合の方がよほどこたえる時があるよ。でも、周りのバンガローやテントでアベックがうまいことをやってるのに、商売とはいえ一日中走り廻ってるのはつらいぜ」
一人前のことを言う。
「合宿の最終日に、山中湖一周のマラソンがあるんだ。今までの記録は三年前のキャプテンだった田宮さんが持ってる。尤もダッシュと違ってこいつあ案外足の遅い奴が勝ったりするけど、君のひとつ挑戦してみろよ」
ようし。、と言おうとしたがなにごとも初めは大きいことは言わない方がいいと思って武馬は黙って頷くだけにしておいた。
電車が動きだし二人は見るともなし窓の外を眺めている。馴染なじみがないので余り互いに会話の種もない。それに、悪い気ではないのだろうが、森が自分をある偏頗んへんぱな形で理解したような口を利くのが武馬には心外だった。彼自身は武馬に共感してるようだがそれも迷惑だ。
確かに喧嘩を何度かして評判にはなったがみんな巻き添えであって、これでも少しはデリケートな恋だって語れる、いや語ろうという気はある人間なんだということをこの男に何かで知らせてやる必要がある、と武馬は思う。
しばららくすると、先刻ああ言っておきながら森は横の古びたボストンバッグの中からなにやらテキストを取り出して読み始めた。流石に武馬を気にしてか先刻と同じようににやにやし、
「とはいえだな、俺も同じ窮鼠きゅうそだよ。あははは。君も無理するなよ」
”勝手なことを言ってやがる”
思って暫くはぼんやり暗くなった外を眺めていたが、矢張り手持ち無沙汰でまたテキストをとり出した。
「へへ俺たちを見りゃ、人は東大生はよく勉強すると思うだろうなあ」
言って森は首をすくめた。
2022/06/13
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