~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-113)
一時間ほどしてテキストを放り出すと、
「君も半分食わないか」
言って森はボストンバッグの中から何やら古新聞に包んだものを取り出す。
「向うに着きゃ晩飯もあるだろうが今の内に食えるだけ食っとかんと合宿の途中でへばるからな」
音をたてて拡げた新聞紙の中に原稿用紙に包んだ大きな握り飯が四つ、分厚く切った紅しょうがと一緒に入っている。
「食えよ」
紙ごと突き出され取ったが随分下手糞へたくそな握り具合だ。
「俺が握ったんだよ」
どうりで、白い飯についた何やら青いものは彼の手にツイタインクのしみ跡らしい。
「すごい握り飯だなあ」
「ぜいたく言うな。寮の隣りの部屋を強引にこじ開けて黙って借りて来た米だよ。感謝して食わないと隣りの奴が帰って来てから泣くぜ」
「寮にはいつ帰って来たんです」
「ずっとさ」
「家には帰らなかったんですか」
森は一瞬武馬の眼を見つめ、外すと、
「俺には、家はないんだ」
ぼそりと言った。
「どうして?」
訊いてから、悪かったかなと武馬は思った。
「おふくろは、小さい頃親父と俺と妹を捨てていなくなちまったんだ。俺の親父ってのはよく言や詩人肌、実際を言や、全く無能力者なんだ。親父は四年前にそんな人間ばかり集まった収容所の中で死んだよ」
「妹さんは?」
「働いてるよ、俺と同じに、朝草のレストランで住み込みの女中でね」
「大変だなあ」
「俺は高校は勿論、中学も半端にしかいけなかったから、大学だって小僧をやりながら検定をとって受けたんだ。二度落ちたけど、落ちたって他の奴らと違って元々浪人なんだから全然気落ちもしなかったよ。それに官学以外の高い学校へはいけないものな」
なんのケレンもなく森は言い、また大きく一口、塩と梅干しだけの握り飯をかじった。
「これ食えよ」
指で紅しょうがをつまみながら武馬に言う。武馬も同じようにして取った。その指をしゃぶって拭いながら、
「俺がさ、何故ラグビーをやってるのかその訳を教えようか」
「ええ」
頷いた武馬から眼を外すと、一瞬遠い眼差しで森は窓の外を見つめた。
「俺が二度目の試験を落ちてまた雑貨屋の小僧をやってた時、オート三論で遠くのおろし屋まで品をとりにいったことがあるんだ。落第がわかったばかりに春先で、日は照っちゃいたが寒い日でね、何ともないとhくぁ言ったが矢張りみじめな暗い気持だった。いくらやっても、結局俺は今いる世界をけられないのだっていうような予感ばかりがあった。
その帰りに道を間違ってある大学のグラウンドの横に出たんだ。そのそのグラウンドで大学のラグビーの連中が試合をやってった。練習試合なんだろうが、女友達や先輩が来て華やかでにぎやかだった。今でも覚えているが黄と赤、黒と白の縞の新しいジャージだ。そしてそのグラウンドだけに太陽が一杯に射し込んでいる感じだった。
ボールがタッチからり出されて俺がオート三輪を止めて見ている金網のさくのすぐそばまで転がって来たんだ。拾いに走って来た選手を見たら、俺と同じ年頃の学生だった。風にさらされた赤い頬に泥がついて、生き生きして幸せそうに見えたな」
森は遠い眼で微笑しながら思い直してように武馬を見、また一口握り飯を頬ばった。武馬は黙ったまま彼を見返していた。
「その時思ったんだ。この世界は本当に俺とは、縁の遠いものなんだろうかってな。もう少し、もう少し頑張がんばれば出来る。試験にパスしさえすれば、たとい苦学したって俺もここでやっている連中と同じように若者らしく、生き生きとやれるんだ。俺はどうもいじけがちだ、ただ学校に入るだけののぞみじゃつまらんぞ。その先どんなに苦学しても自分の境遇に卑屈にならず一人前の若者として人前でも胸を張って生きていくためにこんなスポーツをやる必要がある。そのためにももう一年頑張るんだ、とそう思ったのさ。
大学に入りゃ入ったで小僧の時のように人が食わしてくれる訳じゃない。授業を受けながらそれをかせがなきゃならない。それだけでぎりぎりのところへ余分な運動をやるのはつらいんだ。でもね、俺にはラグビーが必要なんだ。これをやり出したお蔭で、大学にいても他の恵まれた、もっと才能のある奴らの前に出ても卑屈にならずにぬすむ。まだまだ自分一人で頑張っていける勇気みたいなものが出て来るよ」
言ってから森は照れたように笑い、乱暴にまた指の先で紅しょうがをつかんだ。
2022/06/14
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