~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-114)
武馬は今、この男のあるものを理解出来たような気持でいた。彼が今言った彼の過去は武馬には想像出来ない。出来ると言ってもそらは嘘だ。森の今までの生活がどんなに過酷かこくなものだったかは彼自身だけが知っているはずだった。
そして、彼がそれを普段顔を合している仲間に感じさせないtいうことは、偉い、というより男らしく素晴らしいことだった。いつもみんなの前で人一倍明るく奔放ほんぽうに見える彼の人柄の裏にそうした強い意志がひそんでいたことに武馬は感動させられた。武馬は新しい感慨で確かめるように森を見直して見た。
彼は一心に握り飯を頬ばり、やがて指をなめると、
「ああ喉がかわいたなあ」
武馬の眼に気づくと、
「なんだい、あはは、変な話をしちまったな。ど、どうして君にこんな話をしたのかな。喉が渇かないか、電車には水道はないだろうなあ」
「次の駅でアイスクリームでも買いましょう」
「おごるか。すまねえ」
にやりと笑う。その表情にはあんの暗さもなかった。
武馬が買ったアイスクリームをたいらげると、
「合宿の今夜の飯は何かな」
まだ」そんなことを言う。
「みんなにはつらいけれど俺には合宿は天国だよ。飯だって寮よりはずっといい。第一、ラグビーだけをやっていりゃいいんだものな。ただその合宿に入るためが苦労なんだ」
「なんで?」
「なんでって、合宿費さ。スポーツは矢張り贅沢ぜいたくの一つだからな。俺なんざ休みはそのためにバイトをふやすんだ。今年の夏は先輩の紹介で倉庫番をやったんだ。一日おきに泊まってさ、時々荷物をかつぐのもトレーニングになる。夜は本も読めたし給料もよくてバイトとしちゃ最高だったな。だから俺あ張り切ってるんだ。合宿じゃ一寸いいとこ見せるぜ」
富士吉田に着いた時はもう辺りが暗かった。朝夕に仰ぐ富士山の美しさを森はさんざん聞かせてくれたが富士山はもう見えない。
バスに乗り換えると同じ電車で来ていた他の二、三の仲間たちと顔が合った。
バスを下りて少し歩く。流石に東京とは比べものにならない涼しさだ。合宿所に近づいた訳ではないが、武馬の身がひきしまった。
暗がりの細い道で散歩しているキャンパーか、或いは別荘の住人か、若い女性のグループとすれ違う。
「合宿は明日からだからな。今ならばまだチャンスはあるぜ」
歩きながら誰かがへらず口をたたく。
「なあに、あいつらみんな俺たちの寮をはりに来たのさ。合宿中でも遅かあない」
「そういや、高木先輩のフラウは合宿中にここで知り合った人だそうだぜ」
尚歩くと、
「あの灯が寮だ。朝眺めた湖もいいぜ。尤もこの頃は日中は俗悪極まるけど」
森が武馬に説明する。なるほど振り返ると岸辺の家の灯をうつした水面はわかったが相変わらず富士山はどの見当かわからない。
「空に星の見えないところがそうだよ。明日になりゃいやと言うほどみえるさ」
森は言った。
2022/06/15
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