~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-116)
武馬ははね起きた。みんなも周りでてんでにのびをして起き上がり始める。
「起床! 起床!」
マネージャーがまた怒鳴っている。
「なんだ飯かあ」
寝ぼけた森の声がしてみんなが笑った。
「洗面を澄ませて庭に出ろ」
キャプテンが怒鳴った。
第一番に駈け出した武馬は顔を洗った。山の水か水道が冷たくて心持ちいい。トレーニングパンツにはきかえて表へ出る。朝は明けきってはいるが辺りはまだ朝霧あさぎりが残りかなかなの声が聞えている。庭に出てみんなを待ちながら武馬は胸一杯に朝の空気を吸った。
吸いながら胸をそらせて眼を上げた時、武馬は眼の前に富士山を見た。それは予期以上に、あまりに間近く、大きく真ん前に聳えてあった。夜にさがしてもわからなかった筈だ。富士山は眼の前一杯に、空をさえぐって高く、と言うよりは全く巨きく在った。昇りかかった若い太陽に頂近い稜線りょうせんが紫色に輝いて見える。
武馬は思わずうなった。そしてひどく愉快になった。予期以上にでっかいこの山の威容に彼は感嘆する、と言うよりは共感したいような気持だった。
なんとなく、
“畜生、やってやがるな!”
という感慨だった。
「いいなあこの山は、遠くで見てると当り前な感じだが、真下で見ると矢張りいい。高いくせにぎすぎすしてないよ」
後で森が言った。
庭一杯に散らばりキャプテンの号令で、柔軟体操が始まる。一つの運動に一人一人が代わる代わる号令をかけていく。朝の木立に若々しい声が木霊こだまし、湖を伝わり遠く富士山にぶつかって返って来る。森から受け継いで武馬も負けずに精一杯の声をかけた。
「でけえ声だな。あんまり今から張り切るなよ」
また冷やかすように森が言った。
体操の後湖に沿って近くを走った。走りながら時々誰かが気合の声をかける。辺りのバンガローやテントから寝ぼけ眼のキャンパーたちが顔をのぞけている。走っていく足のかかと朝露あさつゆに濡れて心持ちがいい。肌を切る大気はひんやりと涼しくたまらない気持だ。
一日というものがこれほど美しい時間から始まっていくということを武馬は改めて、久しぶりに感じたと思った。
雑木林ぞうきばやしを抜けて行く時、反対側から同じようなかけ声を聞いた。声が近づき、どこの大学か同じ合宿の連中たちが走って来る。
すれ違う時、互いに「おす!」「おす!」若々しく威勢のいい声がかけられた。着ているジャージのマークから慶応の学生だ。
「慶応のラグビーの奴らだよ。いつも同じ頃着ている」
隣で上級生の一人が教えた。すれ違うどの顔も日焼して若々しく精悍せいかんに見えた。この朝霧の中に交わされる一瞬の交歓のの内に、武馬は見も知らぬそれらの仲間たちに殆ど激しいほどの友情を感じていた。
“ここに来て良かった。みんなと一緒にここを走って良かった”
胸の内を突き上げるような感慨で思った。
今過ぎて行った彼らを改めて秋のグラウンドであいまみえるとはなんと素晴らしいことであろうか。
「敵よ頑張れよ!」
ふざけたように誰かが叫んだ。しかしその声にはある真情があった。
寮に帰って間もなく朝飯が出る。簡単なものだが馬鹿に旨い。
自分でお代わりしながら、
「食欲あるのも今の内」
誰かが言っている。
「嘘つけ、お前はいつも、遂に最後までよく食うぞ」
「駄目なんです、今年の夏は調子が悪い」
「それでか」
ともかく初日はみんな元気がいい。
2022/06/15
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