~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-117)
九時半、練習が開始される。近くの中学校のグラウンドまでまた駈足で向かう。初日だけあって基本練習の一応の反覆はんぷくはあるが、秋の試合にそなえて実践的な練習が多い。
日は上ったが東京とは違って暑くはなかった。初日だけにみんなもそうだろうが武馬は体が実に気持よく動いた。
午後になってフォワード、バックスに分れての練習に、主将は初めて武馬にポジションは未だ決めはしないが一応バックスとしての練習に加わるように言い渡した。
「頑張れ、お前なら合宿で認められりゃ秋にはレギュラーにでもなれるぜ」
キャプテンが言った後、森がまたわざわざ近づいて来て小声で励ました。
一日の練習が終り、グラウンドで最後の調整の深呼吸をする時、湖を渡って来る風が胸に甘くさえ感じられる。山の向うに廻った太陽に山腹の稜線が逆光でふち取られ金色に輝いて見る。その富士山を拡げた両腕に抱き込むように、六度、七度、八度、深呼吸がきり返される。泣けて来そうなほどの生命の充実感があった。
「練習、終り!」
キャプテンの声に円陣が崩れみんなはてんでに合宿所に向かって歩き出す。武馬は森にならってグラウンドに坐ってスパイクを脱いだ。脱いで見ると新しい靴だけにまめが二、三か所出来ている。
「そいつあ旨くつぶさないと先にいって困るぜ。よし帰ったら俺が要領を教えてやる」
森が言う。
靴とストッキングをぶらさげ三々五々合宿所へ帰る。富士山の向うに陽が廻って完全にさえぎられるせいか時間の割に黄昏たそがれが早い。夕暮ていく湖と山を眺めながら裸足はだしで冷たい土を踏んで帰るのは気持ちよかった。
道すがらいきすぎるキャンパーたちが驚いたように武馬たちを眺める。
派手はでななりの彼らに比べて、練習帰りのラガーたちは汗とほこりに汚れ疲れて薄みっともなくはあった。しかしそれもまた同じ青春のまがいない一つの形なのだ。
派手ななりの女ばかりのキャンパーが立ち止り、
「汚いわねえ」
聞えるように言う。
「どうもすみませんねえ。あたしたちあ遊んでる訳じゃないんで」
森がやり返した。
「あんたたちどこ、学校は?」
「東大さ」
「なんだ慶応じゃないの」
「悪かったね東大で」
「だって弱いんでしょ」
「おいおい、弱かありませんよ決して」
「本当かしら」
「本当さ。嘘だと思うんなら慶応とやる時でも試合を見に来てくれよ」
「東大と慶応なら私慶応応援すわよ」
「私は東大よ」
彼女たちは仲間同士で勝手なことを言い合っている。
森はまだ何か言いたそうだったが武馬たちが歩き出したので、
「じゃ」
手を振って離れた。
「さろならあ」
彼女たちも手を振っている。武馬も振り返りみんなと同じように手を振った。まんざらな気持ではない。
「森、お前すきだなあ」
歩き出しながら三年生の新藤が言う。
「なにが? だって向うがああ言ったからさ。いいじゃないか、ああいうのがきっかけなんですよ」
「きっかけだって、ああいうのがお前の趣味か。あいつら一寸いかれてるみたいだぜ」
「いやあ、この頃の女の子ってみんなあんなもんですよ」
森は知ったようなことを言う。
「いいよ新藤さんはひと口のせないから。あいつらが誘いにでも来たら一緒にいこうよなあ坂木」
「坂木、お前悪い上級生に見込まれてるぞ」
言われて武馬はただにやにやしているより仕方ない。
2022/06/16
Next