~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-121)
次の日の練習日に武馬も森も昨夜の一件などとうに忘れて走り廻った。例の夜食のせいかどうか、この二、三日よりは足も充分に動く。が昨夜の一件とその日の午前中の練習でハーフバックのレギュラーが二人捻挫ねんざ脱臼だっきゅうで脱落し、午後のレギュラーフォーメーションでは、キャプテンは右のスリークォーターに武馬を据えた。
練習ではあるが手に渡ったボールをかかえ込み、フェイントで二人をかわして後は懸命の韋駄天で武馬が初めて鮮やかなトライを挙げた時、抜かれた一人の森が振り返ってにやりと嬉しそうに笑い返した。
合宿の九日目、同じように山中湖で合宿している慶応の連中と練習試合をやる予定になっている。
相手は強敵だが、その時もし出場のチャンスがあればなんとしてでもひとつやってやるぞと武馬はひそかに思った。

一日の練習が終り合宿所へ帰って風呂の後、例によって夕飯をかき込む。六日目ともなると食欲のある者とない者の差がはっきりと目立って、それがそのまま練習にも現われていた。一年生の中でお替りに立つのは武馬一人じゅらいだ。
飯の後、部屋へ帰って手足を延ばした時玄関の方で車のクラックションの音を聞いた。誰か先輩でも来たのかと思う間、また二度、三度けたたましい音が鳴っている。する内、寮の小母さんが廊下へやって来、
「森さんに坂木さん、女のお客さんですよ」
胡乱気うろんげな顔で言った。
「誰だろう?」
首をかしげる武馬の横で、
「あっ昨夜のだ」
森が叫んだ。
「ね、小母さん、どんな女の人?」
「どんなって、とにかく自分で自動車に乗って ──」
小母さんは当惑したような顔をして言う。
「おい坂木いって見ようぜ」
森は武馬の腕を引っぱるようにして言う。仕方なし武馬も立ち上がった。
廊下で行き会った上級生の新藤が、
「お前に女の客だって!」
「へへ、新藤さんは残念でした」
玄関に間違いなく昨夜の顔が立っていた。
「昨夜はどうも。お暇だったらドライブにいかなくって」
「夕暮の精進しょうじん本栖湖もとすこは素敵よ」
はしゃいで言う声にはもう少しアルコールが入っている。
「食後のドライブとあいいな」
武馬を振り返って言う森に、彼女たちの一人は早速横のドアを開ける。なるほど言われる通り今頃の富士山の向う側の景色は美しいに違いない。この車でなら、歩いて浸かれることもなしに辺りの見物が出来るという訳だ。
「帰りは?」
「勿論送るわよ」
「それを約束しとかないと。それじゃ」
言いながら森が乗り込む。彼にうなされた武馬もつづいて後のシートに坐った。
「合宿所って、近づいただけでなんだか男臭いわね」
車を出しながら一人が言う。なるほど振り返ってみれば、窓や廊下に汚れたユニホームやストッキンギが吊るされていていかにもむさ苦しい。
「畜生、旨くやれよ」
後で誰かが怒鳴っていた。
「あんなとこに住んでて息がつまらない」
「いや、僕ら風呂へは入って来ましたよ」
何を勘違いしてか森が言い、彼女たちはきょうせい声を上げて笑う。
しかし武馬は急になんだか心細くなって来た。二人が乗り込むと車は一杯で、揺れる度、ポロシャツを着た裸の腕が同じ彼女たちのアロハの下の裸の腕にぶつかる、というよりはぴったりとくっつくのだ。向うは一向に気にしていないがどうも気になる。
合宿所の玄関の灯の下で改めて見て、彼女たちのなりは勇ましが、みんななかなか美人だ。
流れ込む夕風と一緒に彼女たちのつけて香水の匂いも伝わって来る。矢張り気になる。大きなことを言ってたが森も同じ様子だ。
2022/06/19
Next