~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-127)
翌る朝、朝飯の後早速寮の小母さんに明子の居所を訊ねた。小母さんも詳しくは聞いていないという。誰か友達が一緒かどうかもわからない。一人とすると、一昨夜のような連中の居る町の中に明子一人を置いておいたことだけでも武馬は全然不安になった。
「また出直して来るとは言っていましたよ」
小母さんは言ったが本当に夕方また来るかどうか待遠しい。今となっては、東京で感じると違ったもどかしさのようなものを武馬は眼に見えぬ明子に感じて仕方がない。しかしなんとしても昨夜あんな連中に誘われてうかうか出かけたのが大失敗だ。
午前中の練習にスパイクを履きながら隣で森が、
「今夜あいつらまた来るかなあ。来ってキャプテンにああ言われちゃ出られもしないけど」
未練そうに言う。確かに森にとっても武馬にとっても初めての経験で、あれでモテたのかどうかまではわからないが、要するに男として悪い気のしない出来事だったことだけは確かだが、それでも今の武馬には明子がわざわざ来てくれているのだ。
「ちえ、なんだあんな女」
「そうは言うけど矢張りそこらの性悪女とは違うぜ」
「同じようなものさ」
「あれ、意外に一晩で気が変わるんだな」
「変わるも何も、最初からなんな連中とつき合い切れないよ」
「そうは言ってもリツ子って子の話じゃ、広美の方はすっかりお前が気に入ったみたいだそうだぜ」
「願い下げだよ」
「きっと今夜も来るぞお」
言われて武馬は当惑した。もし明子とあの連中が玄関ででも一緒になったらえらいことだ。言い訳はいくらしても、昨夜の留守もあるし、明子が良く思わないのは極まり切っている。
「弱ったな」
「仕方ないよ、キャプテンに叱られたと言えばいい。東京でチャンスはある」
「そんなことじゃないんです」
武馬は八つ当たりにふくれっつらで言った。

午前中は寝不足といろんな心配で練習に調子が出ない。つまらんエラーでボールを手から落す武馬に、
「どうした、夜遊びのせいか」
マネージャーが意地の悪い声をかける。
それでも午後のなっての激しいフォーメーションの練習でそんな心配を忘れて武馬は走りまくった。
練習を終り、最後のダッシュでグラウンドを縦に突っ走り始めた時、武馬は向かっていく正面のグラウンドの横の木立から人影が出て来て脇にある小さな鉄棒の側に立つのを見た。間違いなく、“明子だ”と思った。いつからか今まで木立の陰で練習を見ていたらしい。見極みきわめる間もなく、武馬はその姿に向かって真っ直ぐに走った。八十メートル近くで先頭の一人を抜き切ってゴールインした時、斜め前の鉄棒の横で明子が顔一杯の微笑で手を上げるのを見た。いつものようにすがすがしい笑顔だ。彼女の頬も少しばかり紅潮して見えた。
素早く片手で応えてその前を駈けぬけながら、ダッシュのせいではなく、急に武馬は動悸どうきが打って来た。体が熱くなって来た。
最後に並んだ円陣の武馬の横で、彼女を認めてか、マネージャーが、
「おいおいこの野郎」
と肩を小突く。
深呼吸しながら皆はもう明子に気づいている。彼女がチームの誰かを訪ねて来たことも、そこは野郎の素早い感でわかるというものだ。
「練習終り」の号令の後、一体誰が彼女のところに歩いて行くかをみんなは互いにじろじろ詮索し合っていた。
そして、号令の後、皆の視線を背に受けながら武馬は妙にのろのろと明子に近づいていった。
「あの野郎っ」
後で頓狂に言ったのは確かに森の声だ。
2022/06/26
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