~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-128)
「昨夜はごめん」
言った武馬に、
「私こそ。早く着いたんだから電話だけでもしときゃよかったのよ、ごめんなさい」
逆に明子に言われた武馬はますます弁解しにくくなり口ごもった。
明子は東京の友人の山荘に泊まっていると言う。その仲間たちと富士山に登るつもりだそうな。
御殿場ごてんばの方へ下りて、裾野すそのを廻って合宿の終り頃にはこっちへ戻っているわ」
帰りは一緒に帰れるとまでは言わなかったが、
「でも、東京へ戻ってまたすぐじゃ疲れるだろう」
「大丈夫よ。でも、お姉さんにもそう言われたわ」
その後、悪戯いたずらっぽく笑って肩をすくめると明子は急に眼をそらせて無理に横を向いた。武馬はまた一寸動悸が打った。明子の富士登山が七分、いや八分までは口実であるのはわかった。矢張り嬉しかった。
昨夜いいそびれ、それを一日中今まで待っていたせいか、会って見るとかえって一夏離れていたような感慨が薄らいでしまっている。ただ夏を過して明子の白い肌が気持の良い小麦色に変わっている。
こうして向い合って立って見ると、武馬は自分が今、やっと安息した気持ちでいられるのを改めて感じる。それを何とか言葉にして伝えるべきなのだろうか、どうも言葉が見つからず、代わりに、
「試験の準備出来た?」
などと野暮なことを言った。
気づくとチームのみんなはスパイクを外し反対側のグラウンドを出て行きかけている。最後のグループの中から、また森が振り返り武馬に向かって、
「おうい、飯は食わねえのか」
つまらん冗談を怒鳴った。
明子をうながしてみんなの少し後まで追いついた。
寮の近くの分かれ道で、
「それじゃあ夕御飯のすんだ頃またおうかがいするわ」
言って明子は武馬を離れた。
そいつあ一寸まずい、と何か言おうとする間もなく、明子は手を振って小走りに駈け出した。みんなの近くで大きな声を出して呼ぶのが気恥ずかしく、武馬はどうしようもない。
思わず立ち止って見送る武馬へ、
「まずまあ、飯を食って、風呂に入ってからにでもしろや」
「こいつ謹慎きんしんの必要有りだな」
にやにや笑いながら新藤と他の上級生が言った。
風呂の隅で並んで体を洗いながら、
「弱ったな」
言うともなし森に武馬が言う。
「あのプレイガールか。しかしお前も少し贅沢だぞ。二股ふたまたかけて」
「冗談じゃない。俺は初めからあんな連中 ──」
「けどそう言ったって、向うは『あなたに関心がある、気に入った』と来たぜ」
「だから困る」
「ちぇ、うぬぼれてやがる」
しかし武馬は首に腕を巻いて言った広美の言葉を思い出した。どこまで本当か知らないが、東京へ帰れば大方大勢の遊び友達もいることだろうが、とにかく遊び相手の居ない今、この土地で、相手に勝手に関心を示されても、こちらの都合があるというものだ。
「弱ったな ──」
「早く寮を出ちまうんだな。奴らが来たら俺が旨く断っといてやるよ。どっちにしてもあの連中は御法度ごはっとなんだ」
「けどもし、途中でいき合いでもしたら」
「そいつあまずいやな、しかしなんとか旨くいくよ」
森は気易くそう言ったが、ことは一番まずい具合に起こってしまった。
2022/06/27
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