~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-129)
食後、寮にやって来た明子と武馬はそそくさと玄関を出た。なんとかいき合わずにすんだとほっとした矢先、近くの道でいき違った車が後でにわかにターンして追いつきクラックッションを鳴らして二人の眼の前に止まったのだ。
ライトで相手の姿がわからず、念のため横の雑木の蔭に彼だけよけて身を隠したのだが、止まった車の上には、昨夜の顔が並んで乗っていた。武馬は眼をつむった。
「武馬さん、お出かけ?」
「今おうかがいしようとしたのに」
「約束忘れたの、ひどいわねえ」
「あなたに差入のお土産沢山持って来てあげたのよ」
広美とリツ子が替る替る言う。言葉の様子から矢張り昨夜の始めくらいアルコールが入っている。
それに武馬の隣の明子を意識して馬鹿に馴れ馴れしい。
「いや、ぼ、ぼくは友達が来て、一寸散歩に出かけるんで」
「つまんないわ、そんなの」
「し、しかし君が勝手に、いや、昨夜門限に遅れたお蔭でキャプテンから君らとは合宿中交際、いや、口をきいてもいかんと言われたんだ」
武馬は半分やけになって言った。明子には事情は後からゆっくり話せばいい。
「ちぇ、なによキャプテンなんか」
「だから、森だって同じことです」
「そんなこと言て、あなたはまた女連れでどこへいこうというのよ」
「どこだっていい」
「よかないわよ。せっかくママ子とヨウ子たちをまいて来たのに、ねえ ──」
何か言い返そうとする武馬の横から明子が一人で歩き出した。武馬はあわててそれを追った。
「まあいいわ。今晩はお楽しみ。でも坂木さん、私その人に断然挑戦するわよ」
後から広美の声が聞えた。
怒りと当惑で武馬は体がふるえて来た。
暗い小道を走ってやっと明子に追いつき、声をかけようとしたとたん武馬はつまづいて前へ転んだ。転ぶのは昼間の練習で馴れてはいる。が、すぐに起き上がったが、手をついた拍子ひょうしに何かに当たったらしくひどく痛い。
「大丈夫?」
思わず明子が言ったが、
「なんだか手を切ったみたいだ」
明子はすっと近づき、その手をとると、木の間がくれに向うの灯が見えるところまで武馬をひっぱっていき、ハンカチを出して黙って巻きつけた。
「有がとう」
武馬は感謝した。
しかい、それきり明子は黙っている。怪我けがの手当はしてくれたが、彼女の雲行きは変わった様子がない。
せきをしてみたが何を話していいのか旨く言葉が出ない。何だか今でも後からあの連中が、勝手なことを言って追いかけて来そうな気がする。ましまたたって来でもしたら、今度は明子の眼の前で本気で殴ってもいいと思った。
手の傷がうずいて、武馬はまた彼女たちに向かって腹を立てた。
二人は暫く黙ったまま歩いて行った。歩いて行くうち、何組か二人づれにすれ違う。彼らはみんな楽しそうに感じられた。こちらはそれどころではない。
林が途切れ、バンガローのちらばった、湖水を見下ろす小高い丘陵に出た。季節がそろそろ遅いのと、町から遠いので辺りには余り人影がない。
「明子さん、怒ってるの。怒ってるんだろうな」
さり気なく言ったつもりだが、妙におずおずしか声が出ない。武馬はそんな自分に憂鬱だった。
それでも、
「いいえ」
と明子は言った。
「そんなことはない。怒ってなくても、不愉快だったろうな」
彼女は黙っている。
「僕の不愉快だよ」
答、なし。
「あんな連中がいるということは聞いてたけど、つかまったのは、い、いや、会ったのは始めてだ。森さん、もう一人の友達がいりゃ、説明してくれるんだけど」
「何を?」
「実は昨夜 ──」
ともかく正直に打ち明けるにこしたことはない。武馬は一昨夜の出来事から順々に説明した。しかし、あのテラスでのあや しげなダンスだけは省略しておいた。
「あれ、水島みずしま将左衛門しょうざえもんの娘だって ──」
「それがどうしたの」
めつけるように明子は言う。
「い、いやともかくそういう事情なんです。僕の方も迷惑してるんだ」
「武馬さん紫雨しうお師匠さんの言った言葉を忘れたの」
「だからさ、思い出したのに森さんが僕を引きずり込んだんだ」
「女難ということね」
一寸皮肉を効かして言った。
「本当にすみません」
「どうし、あやまったりするの」
「だって ──」
「悪いことしてないんでしょ」
「そりゃそうだけど、勘弁かんべんしてくれ。もう、そうからまないでくれよ」
「いいわ、許して上げる」
微笑を浮かべた声で言った。そして、武馬の方へ向き直ると、
「私だって、挑戦するわよ」
半分、本気な調子で明子は言った。
「有りがとう」
言ってしまって、武馬の胸で動悸が打った。しかし、彼女も多分同じだろうと彼は感じていた。
2022/06/27
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