~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-130)
二人はまた今までと同じように黙ってしまったまま、歩いた立ち止って顔を向け合うとなんだか怖いような気がし、何か言わなくてはならぬにしては何を言ったらいいのかわからない。それでも、互いにやっと通い合った者を二人とも感じてはいた。
散歩道はずっと続いている。暫く行くと丘の上に出た。眼の前にすすきの原がつづき、その向うに灯の流れた湖が見える。月は富士山の蔭に廻ったが星空が美しく、大きな山の影は昼間見るよりも間近く見えた。
いく道がきりがないので、景色を眺めながら、二人は道端の草の上に並んで坐った。
丘の上は風の通い道で、坐ったままでいると大層涼しい。
「寒いぐらいだわ」
身じろぎして明子が坐り直した。それを風からかばうようにして自分の体を動かした時、はずみで、二人の腕と腕が触れ合った。ばかに熱く感じられた。また動悸が打って来た。動悸だけではない、体のしんが妙にしびれたようになる。
触れ合った腕の肌と肌の間に二人の動悸が伝い合っているようだ。明子は黙ってうつむいうたように一番足元のキャンプに灯を見つめている。
“ここで、これで、なんにも出来ないようじゃ、俺は男じゃない”
武馬は誓うようにして思った。思ったが歯ががちがち鳴った。
「寒くって?」
明子に訊かれ、
「い、いや」
言ったが声の終りが震えている。
明子の声も一寸上ずったように聞えた。
「ああ、畜生」
と口の中で言った。
今、二人の間に互いにはっきおり感じられる或る緊張があった。それはなんとかするためには、どうしても、男の武馬が何かを言わなくてはならない。しかし、言葉が唇から出て来ない。武馬は自分で自分に我慢がまんがならなかった。
「あら、流れ星が」
明子が言って指す。
なるほど、光ったき傷のように、流星が高く暗い山の蔭に消えた。互いに一瞬その星に救われたようにほっとしたが、後は全く前と同じだった。
“俺は、決して、また歩こうなんぞと言わないぞ”
とだけは思った、が、
“しかし、彼女がそう言ったら終りだ”
すると、
「ぼ、ぼくは ──」
とだけ、かすれたような声が出た。それでも、耳の中ががんがん鳴った。腹を決めればやくざの親分たちの前でも、一席ぶてたのに、今は駄目なのだ。
「ぼくは ──」
明子は黙っている。彼女が眼をつむっているのを武馬は感じたような気がした。
「わ、わかり切ったことでも、ちゃんと言っておかないと、気になるんです」
“なんて言い方をするんだ”
しかし、明子は無言だ。
“これで終りとは言わせんぞ”
「ぼくは、ま、まだ、そのことを言ってないんだ」
“そのことって? とでも訊き返してくれりゃ”
と思ったが明子は黙っている。ただ、思いつめ、圧し殺したような彼女の息づかいだけが聞えた、というような気がした。
「つ、つまり、ぼくは、明子さんが、好きなんです」
区切りながら、最後はやけみたいに、前を向いたまま夜の富士に向かって武馬は言った。体がほてったまま、ばらばらになってしまいそうな気がした。
風が眼の前のすすきの原をないで渡っていく。武馬はやっとの思いで体を起し、うかがうように彼女を見た。同じ瞬間、明子も顔を上げ、二人は薄暗がりの中で互いに見つめ合った。
「好きなんです。いいですか?」
もう一度念を押すように、武馬は言った。
「私も」
頷くように明子が言った。
2022/06/28
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