~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-131)
二人は今までのいつもよりも、馬鹿に他人行儀に、頷く、というよりぎこちなくおじぎし合った。そのまま知らぬ内二人は握手でもし合うように互いに両手を握り合っていた。初めて握った明子の掌と指は熱く細かった。動悸というよりは、血が全身に上って体ごとで脈を打っているような感じだった。
「ぼ、ぼくは、ほっとした」
「私も」
あえぐように彼女も言った。
“昼間なら、とてもこうはいかんぞ”
武馬は余計なことを考えた。
二人は眼を見つめ合った。握った彼女の掌が小さく震えている。それを包むように武馬はその手に力を入れた。
「来て、よかったわ」
あえぎながら、小さく、つぶやくように明子が言った。武馬はその瞬間、自分がこの女性を、明子を、間違いなく、愛しているということを改めて、愕然がくぜんとするぐらいに感じたのだ。
「あ、有りがとう」
握ってゆすった手に尚力が入った。そのはずみによろけてもたれるように彼女の肩が胸に触れた。
自分でもあっという間に、武馬はその肩を抱いていた。その腕の内で、明子は武馬を見上げた。その瞬間、武馬は、いや二人は、天からの崇高すうこうなる命令を聞いた、いや、体の内に感じた。しかし流石に、二人とも眼をつむってしまった。が、それでも唇と唇は、ほんの一寸いき違っただけで、ほんの一瞬、素早く交わされたのだ。
次の瞬間、二人は驚いたように体を引き、もう一度、互いに見合った。片方の手だけは結び合ったままだった。戦慄せんりつが未だ体の中を退いてはいかず、二人はしびれたように向き合っていた。
羞恥しゅうちも、後悔もなかった。ひどく当然なことを、やっと、仕遂げたような気がし、上気しながらも体中がすがすがしかった。
やがて二人は手をとり合ったまま立ち上がった。夜風が上気した頬に冷たく心持よかった。改めて眼にする風景は、たった今までよりも美しかった。武馬の心も体も、すべてが、かつてない安らぎと満足に満ち満ちて感じられた。
風に乗って何処かのコーラスが聞えて来る。いつか、どこかで見た外国の映画の如き設定のような気がする。しかし武馬は、今、そこに明子の手をとっている自分を信じた。それが、まちがいない、美しい、健康な自分の青春である事を彼は胸を張って信じた。眼の前の、夜の富士山に向かって大声に「万歳!」と怒鳴ってやろうと思ったが、明子の手前それは止めにして置いた。
合宿所の近くの分かれ道でもう一度手を握り合って別れた。たとい、今ここへ、例の連中がやって来たとしても、武馬は胸を張って彼女たちに怒鳴り返してやれるだろう。
明子は明日、友人たちと富士山に登る。
「いきたくないわ」
始めて、一寸ちょっと甘えたように彼女は言った。武馬もいかせたくなかった。しかし、友だちとそういう約束で来たのだから仕方がない。
「さようなら」
言って遠ざかる彼女の後姿を、武馬はいつまでも立って見送った。昨夕の別れよりも、今の方が、大事なものを手離すような気がして、胸が痛んだ。
消灯就寝前の合宿に帰る。
2022/06/28
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