~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-132)
おお愛よ、愛よ!
あの山にっかっている
朝の雲のように
黄金なすその美しさよ!
誰かがゲーテの詩を朗読している。文句のくせに、怒鳴るようながらがら声がいかにも合宿所の風景だ。
私はお前を愛する
あつい血をたぎらせて。
お前は私に青春と
喜びと、はずむ心を与えてくれる。
「とかなんとか言ってもよう、この合宿のおりの中ではねえ」
「身から出ましたさびゆえにぃ、可愛いあの子と生き別れぇ、今じゃ合宿、檻のなかぁ」
誰かが妙な節をつけて歌い出すと、ゲーテの詩に合唱がとって代わってしまった。
しかし、武馬の胸には今誰かが読み上げていたあの詩の実感があった。
明子との散歩の語らいで、やっと肩の荷を下ろし、やっと一人前になったような気で胸を張って帰っては来たが、本当に檻の中の獣のように転がっている仲間を見ると、一寸後ろめたく黙って部屋へ帰りかかった。
が、
「おい、坂木、一番つき合えよ」
上級生から声がかかり、碁盤ごばんの前へ引き戻された。
横では相変わらず合唱がつづいている。
「坂木、お前、なんだか馬鹿に嬉しそうだな。なんかうまいことあったのか、え、おい」
森が声をかける。どうぢてこの男は、そうしたかんばかりよく働くのだろうか。
翌々日の練習で、森が肩をつつき、
「おい、また来たぞ」
見るとグラウンドの端に見なれた広美のオープンカーがほこりを上げて入って来る。
一昨夜、森に何と言われてか、二人を見ても声をかけず、車の中から四人は練習を眺めている。
しかし、パスやドリブルでその前を駈ける時、彼女たちがてんでに勝手なことを言っているのが聞える。
「これじゃ慶応とあ話にならないわ」
「そうでもないんじゃない」
「体の大きさが違うわ」
「きたないユニホームね。きたなさなら東大の勝ちだわ」
どうやら明後日の練習試合を知っているようだ。
練習が終わると果せるかな近づいて来、他の部員とも馴れ馴れしく話し合っている。武馬は後の方で顔をそむけていた。が、広美はみんなお横をぬけるとやって来た。
「こんにちわあ」
「ああ」
「どうしたの、こないだのこと怒ってるの」
「知らんよ」
「怒ってるのね。あの人だあれ」
「誰でもいい」
「よかないわよ、友だち?」
「なんでもいい」
「恋人」
「そうだよ」
「おや、ごちそうさま。明後日の試合あの人見に来るの?」
「知らないよ」
言われて眉をひそめた。明子もその頃山を下りて来る筈だ。試合のことは訊かれるともなく話してはあるが、来るかどうかはわからない。来たとするとまたひと悶着もんちゃくおこりそうだ。「私、挑戦する」と両方が言った。
「がんばってね。私はハンディつけて東大に賭けてるんだから。ママ子たちは慶応よ。友だちが出来たらしいわ」
「男の友だちにはことかかないらしいね。なにしろ強引だからな」
「あら、どういう意味。そうよ、私は大変強引なんですから、覚悟してなさい、武馬さん」
武馬は背を向けて歩き出した。
後ではまだ他の連中が面白半分で話し合っている。
「試合に出る時は差し入れたのむよ」
新藤が言うと、
「OK、まかしておいて」
「私あ慶応の方に入れるわよ。東大の方には毒でも入れといてやる」
慶応びいきのママ子がおだやかならぬことを言ってみんなを笑わせた。
みんなに紛れて森が例のリツ子と何かひそひそやっている。みんなが歩き出し、マネージャーに小突かれて急いで振り返り、待っていた武馬の方へ言い訳するみたいににやにや笑った。その森へ、リツ子がなんとなく名残り惜しそうに手をふる。武馬はおやおやと思った。
2022/06/29
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