~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-135)
タイムアップのホイッスルが鳴り、東大は惨敗した。得点の開きは改めて審判の口から聞くのも憂鬱なほどだった。今年のリーグで優勝候補と言われているだけに相手の実力は想像以上に強い。
向かって並び合い、互いにエールを交換しながら、武馬は端の方に居る竜野の顔を見つめ直した。
武馬を含めて味方の大半がほこりと砂にまみれ、すり傷を作って惨めな風体なのに、竜野は汗こそかけ、少しもつらそうに見えなかった。二人の視線が合い、武馬は笑いかけたが、竜野は覚えていないように無関心に眼をそらし、隣の仲間に何か言っている。彼にとっては、群がるをなぎ倒して進んだ相手のバックスなぞどれもこれも同じようなものに違いはない。しかし、武馬はその横顔に向かってある共感を感じて仕方なかった。彼は文句なしに、この素晴らしい選手が好きだった。この男と、選手としての友情を持ちたいと彼は思った。
武馬はその横顔に向かって、彼一人の誓いを立てた。
“秋のリーグ戦には、必ず、この俺を覚えさせてやるぞ”と。
ベンチに戻ってもみんな憂鬱だった。やって来た広美やリツ子たちも、流石気の毒と思ったのか余り冗談も言わない。代わりに、向うのベンチでははしゃいで何か言うママ子の声が聞えている。
「どうも、相手が強すぎたな」
なぐさめるおうにマネージャーがいう。
誰も答えず、黙ってスパイクを脱ぐ。合宿の疲れがにわかに出たような気がする。
「なんのために合宿やったのかわかれねえみたいなもんだな」
誰かが言った。それが本音でもあった。
「そんなこと言わないで下さい」
武馬は言った。
「まだ秋までには時間があるんだ。まだなんとかなる。秋には、まだなんとかやれる筈です」
「そうだ。第一、そう思わなきゃ惨めだ」
「思うんじゃない、やるんです」
「そうだ、やるんだ。今日の試合が俺たちの欠点をみんな教えてくれたようなもんだ」
キャプテンが言った。
「しかし坂木、今日の君は実によくやったよ」
「さんざん転がされただけです」
「いやあれでいいんだ。とにかく、今、うちじゃ竜野の足に追いつけるダッシュは君しかいないようだ。秋にはあれがもう少しなんとかなる」
「やりますよ」
武馬は言った。答ながらすりむいた頬が痛んだ。
広美に何か言われる前、武馬はみんなと一緒に歩き出した。みんなの真情を見てか、広美も追ってはこない。ただ、
「さようなら、また東京でね」
とだけ言った。
「差し入れ、有りがとう、また頼むよ」
誰かが言うと、
「今度は果物より強壮剤でも持って来てあげるわよ」
リツ子が言った。
明子は合宿の帰り道の途中で待っていた。武馬を見、
「怪我は?」
とだけ訊いた。
「大したことない。でも見てて、ひどかったろう」
「いいえ。勇敢だったわ」
「勇敢だけじゃすまないこともある。しかし、秋にはやるよ。必ず」
明子は黙って微笑した。そして、
「お師匠さんが見たら、なんと言うかしらん」
2022/07/02
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