~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-138)
試験が来た。その初日、流石さすが武馬も固くなって家を出た。試験は小学校に入って以来馴れてもいるはずだが、大学での初めての試験というのはまた別の気持だ。もうこれ以上、上の学校もないのだから失敗してもいいような理屈だがそうもいかない。ともかく人並みのことはしたい。人事を尽くして、待天命、ということもあるが、余り人事を尽くしたとも言えない。
最初は語学の試験で、ホームクラスに入るともう大方の顔が揃ってる。坐っていた和久が手を上げ、武馬は空いていたその隣に坐った。後から明子が入って来、武馬に眼でうなずいて向うに坐る。その横顔はいつものように落着いて見える。
「女てのはこういう時、頼り甲斐がありそうに見えるな」
武馬の思ったことを和久が言う。
「どうだい、準備は」
訊ねた武馬に、
「さあね、なんとなく名栗湖によりも気が落着かない」
和久は真顔でそう言った。
「死ねばもろともだ」
「もろともは御免だよ」
「友だち甲斐のない奴だ」
やがてベルが鳴り、試験官が入って来て答案を配った。「始め」の合図でみんな一斉に答案を覗き込む。誰かが、「あ痛あ」と頓狂とんきょうな声を上げ、みんながくすくす笑った。
武馬は斜め前の横顔をうかがった。明子は相変わらず落着いた表情で答案を覗き込み、もう鉛筆を動かして書き出している。武馬は安心したが、安心した後で当の自分が不安になって来た。
それでもまあなんとか一番二番は進んでいった。
三番に入って分らぬ単語が一つ出て来た。前後からせめてみたが、そらが分らぬとどうにも大きなセンテンスが摑めない。彼は入学試験の時、いわば山カンという奴でわからなかった単語を三つも当てたことがある。それでパスしたみたいな気もするぐらいだか、その山カンもどうも今度は働いて来ない。武馬は行き当たきり往生おうじょうしかかった。周りの連中はみんなかがみ込んで一生懸命に答案を書き込んでいる。「Muikigrubs」という単語がそのガンだ。どう考えてもわからない。なんだか、以前どこかで見たような気がしないでもない。思わず、
「Muikigrubs,Muikigrubs,ああ畜生、Muikigrubs め」
と声に出た。
その時、横で和久が、
「ああ畜生、意気消沈いきしょうちん、意気消沈」
瞬間武馬は思い出した。Muikigrubs=意気消沈だ。ハーディの小説の中に出て来たのを読んだことがある。思わず和久を眺めた。和久はいかにも難問をかかえて困ったような表情でまゆをしかめたままうつ向いている。武馬は胸の中で手を上げて答えた。
どうも余りいい行為とは言えないが、間髪入れぬ和久の友情に全く感謝した。そこをつっ切ると、不思議なくらい、落ち着きが戻って、後の答案は一応なんとなくすらすらといけた。
終り二十分前に、試験官は、「出来た者は答案を出して出てよろしい」と言う。皆の見ている前で何人かが立った。その中に明子もいる。明子は立ってから武馬を振り返り、彼がまだ」坐っているのを見てから一寸躊躇した表情を見せた。武馬は仕方なしに彼女に向かってただにやりと笑って見せた。
終りのベルが鳴るぎりぎりまで、武馬も和久もとうに書き上げた答案を何度も読み直していた。自信無いこともないが、時間前に出て行くほどは準備の勉強もしていないというのが真情だ。
ベルが鳴り、答案を出した後で、
「どうだい」
和久が訊く。
「ん、まあな。意気消沈と言うほどでもない」
和久はまたにやりと笑って見せた。
「Muikigrubsてのあなんだ。あれがどうもわからねえ」
言っている仲間が何人かいた。二人はそんな声に知らん顔で机を立ち上がった。
建物の外で明子が待っていた。並んで出て行った柴田が彼女を認め、
「やっぱり才女にはかなわねえ」
とぼやく。
「私はあきらめがはやいだけよ」
と言ったが明子は初めての試験を終えて別に興奮した様子もない。
食堂に向かって歩き出した時、事務室のある建物から出て来る人を見て武馬は立ち止った。
杉の父だ。そして彼の押している手押し車の上に、下半身を毛布にくるんで杉が坐っていた。
思わず駈け寄って、
「杉君」
呼んだ声に杉も武馬を認めた。父親も笑っている。
「よかった。やっぱり来たんですね」
「お蔭さまでなんとか。昨日から近くの宿屋に泊っているんです」
父が言う。
通りすがる学生たちが不思議そうに彼を見つめた。
「どうだった、試験は」
「大丈夫。全然、大したことは」なかった
杉は武馬を見上げ、笑いながら言った。その顔はあの病院のベッドや、その以前、図書館で見た時よりずっと太って元気そうに見える。何か以前持っていた自信が半ば戻りかかって来ている感じだった。
武馬と話している杉を彼のクラスの者たちが見つけてやって来、みんなが彼を心から激励した。杉の父は嬉しそうにそれを離れた所で見守っている。最後に、武馬の眼を見つめると、
「彼女は元気だろうか」
杉は訊いた。雪葉のことだ。合宿中試験勉強でかまけてあれ以来会っていない。しかし、
「ああ、元気だ」
武馬は答えた。
「君が夏休みで帰った後、一度、一人で病院へ来てた。何も言わずに帰っていった。親父も僕に何も言いはしなかったけど ──」
杉は一瞬、遠い眼をして言い、武馬をじっと見つめて微笑した。その眼差しの内に、願うような影があるのを彼は感じていた。
「まかしておけよ」
武馬は言い、杉は黙って頷く。
やがて父親に背を押されながら、杉は彼を振り返りながら校門の方へ出て行った。
2022/07/05
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