~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-139)
武馬は改めて雪葉のことを思い出した。昨日もおさらいがあったのか、母屋おもやの方で彼女の名を呼んでいるお師匠さんの声を聞いた。一度、会う必要があると思ったが、武馬は勉強のために下りて行けずにいた。実際の話、二人の間をあのままに自分に預けろと言って来はしたが、杉が命をとり止め、全快して来た今、何をしてやったらいいのかわからない。
タクシーに飛び込んで死に損ない、その後武馬に励まされてなんとか自分を取り戻しはしたろうが、それは精神の上のことで、野球は体が直れば出来もしようが、雪葉の方はどうなるのか誰も知らない。杉に再び学校で顔を合した今、武馬とても自分の言ったことに責任を感じる。
昼食の後、和久を呼んで校庭の隅で相談を持ちかけた。
「それで君は二人に何を約束したんだ」
「いや、ただその、俺にまかしておけとだけ ──」
「どうまかすんだ」
「それを君に訊いてるんだ」
「頼りない奴だなあ」
「どうしたらいいんだろう」
「ふーむ」
和久は考え込んであごをさすった。
「なにか、二人はまだなのか」
「まだとはなんだ」
「気の利かん奴だ」
「あ、そうか」
武馬は気づいて赤面した。武馬がまだでないのは、明子との接吻せっぷんぐらいのものだ。それは当然だろうが、雪葉は芸者だ。とはいえ、二人は恐らくまだだろう。
「そうか、しかしいずれにしろ二人の仲は駄目なんだな。杉の親父がどんあに改心しても学生の息子に芸者をひかしてまではやりはしまい。するてえと二人は別れる。別れなければならん。雪葉に見受けの旦那の話があるとなると、それも間もなくだ」
「つらいだろうな」
武馬は思わず実感をもって同情した。
「そんなことを言ってる場合じゃない。恐らく、ひかれたらそれ切りに雪葉は彼の前から姿を消すだろう」
「そうさ。しかしいっそその方がいい」
「とだけは言っていられないのだろう。ともかくまかせと言った限りは」
「どうしよう」
「なんとか、一夜の情を交わさせてやりたいな」
「ええっ」
「そうじゃあないか」
驚いて言う武馬の前に、和久は相変わらず憮然ぶぜんとして言った。
「尚つもる思いもあるだろうが、それは男としてきっぱりあきらめろ、と君から言い渡すんだな」
「し、しかし」
「しかしもなにもない。一夜も添わずに死んだなら、とかなんとか歌にもあるぞ。とにかく君がしてやれるのはそれくらいまでだな」
「しかし、どうやって」
「なんのために赤坂にいるんだ。それぐらいの智恵はつけろ。そうだそうだ、明子さんにそうだんすりゃいい。彼女の家は待合だろう」
「そんなこと」
「彼女だって一肌脱ぐさ。天下の『川北』でちぎりを交わして別れたあ、それだけで一生の想い出になるぜ。汚職に軒を貸すより、その方がずっと綺麗きれい渡世とせいだ」
武馬は思わず周りに明子の姿を捜した。
「けど、俺には ──」
「友だちを寝かせてやってくれとは言えないのか」
「どうも ──」
「情ねえな。明子さんに言いにくけりゃ彼女の姉さんに言えよ」
武馬は言われて眉をひそめて驚くだろう香世の顔を想像した。
「駄目なら、そうだ、君の家のお師匠さんに相談してみろ、それとも年寄りにあ仇な相談かな」
「い、いいや、そうして見る」
「それがいいぜ。そうしてやりゃあ奴だって喜ぶさ。学生が芸者とれ合って別れるのあ、昔から決まった筋書きだ。未練みれんは未練だろうが、その未練がまたいいのさ」
和久は、憮然ぶぜんたる面持ちで知ったようなことを言ったが、武馬にはそんな和久がひどく大人に見えてならなかった。
2022/07/05
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