~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-140)
帰ってすぐに相談しようと思ったが、どうも話が話なのでちぃ言いそびれ、二日して、翌日は試験が無くて一寸落着けた気分の時に思い切って話した。話しかかりながら、或いは目玉を食うかも知れないと思った。
しかし、杉が父親の手押し車に乗せられて試験を受けに来たと聞いてお師匠さんはすっかり感激してしまった。
「── 車を押してたのが雪葉さんならねえ」
武馬は言ってみた。
「馬鹿言っちゃいけないよ。夫婦じゃあるまいし。けど、そうだよ、あの二人のことをどうするつもしだい。雪葉はあんたを頼りにしていたかどうか知らないけれど、とにかく約束通りあの時のままの体でいるんだから」
武馬は和久と相談したことを遠廻しに、段々近く、ぼそぼそ話して聞かせた。どうも口が重い。
「え、なんだって、明子さんに頼んで、どう ──」
「つ、つまり、一夜を共に過ごさせて」
「はあ、一夜添わせてという訳か」
お師匠さんは、持っていたきせるをぽんと打つと、
「ふーむ」
試すような眼で武馬を見つめた。
すいなことを言うじゃあないか。ふーむ」
まだ感心してる。
「なんだね、その知恵を誰がつけたい。まさか明子さんじゃあるまい」
「いえ、その、和久です」
「ははあ、なるほどね。やっぱりやくざだけある」
変なほめ方をした。
「いけないでしょうか」
「いけなかない。修身の先生が聞きゃいいとは言うまいが、結局、それが一番だろうね。後は二人の意志だ。けど、それに『川北』を使うのはよくないよ」
「どうして」
「そりゃいけない。第一明子さんは同じ学校の学生だ。女将さんだってあんたと知らぬ仲じゃない」
「と言って」
「二人がそんな由緒ゆいしょで結ばれるのに、妙な場所も捜せないよね。よし、私が引き受けて上げる。いいところがあるからまかしておきなさい」
「お師匠さん!」
「あんたが背負って来た仕事じゃないか、だから私が口をくんだよ。今はただの友だちでも、何十年先にどんな人間になるかわかりゃしない。そういう苦労はやがてはし甲斐のあるもんだよ」
武馬は手をついて頭を下げた。
「杉さんの体もまだなんだろうから、日どりの目やすがついたら私にそうおっしゃい」
お師匠さんは頷いて胸を叩いた。

翌々日、学校で顔を合した和久にそのことを告げた。
「うーん、あの婆あ、やっぱり見どころがある」
和久は満足そうに言った。
杉は相変わらず父親の押す手押車に乗って試験を受けに通っていた。顔を合す度、彼の顔には自信と元気がよみがえって来ているのがわかった。
父が居るので言えなかったが、それでも、ある日隙を見て、
「彼女は元気だ。君だけを待っている」
武馬は囁くように言って別れた。遠くで振り返った武馬を、杉は押されて離れて行きながらずっと見送っていた。
2022/07/06
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