~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-141)
やっと試験が終わった。結果はともかく、それがやっと過ぎていったということでみんなの胸の内にもえも言われぬ開放感があった。最後の試験日の最終時間に、終わって先に答案を出して出て行った誰かが、廊下からまだ中にいる誰かに、
「麻雀屋にいるぞ、今日こそは」
叫んで駈け出して行く。流石さすが試験官も今日は苦笑いでそれを咎めようとはしなかった。
武馬も校庭に飛び出して体一杯深呼吸をした。長かった試験に、痛めつけられた神経がようやく元に戻って行きそうな気がする。まずは精一杯グラウンドを駈け走ろうと部室へ急ぎかかる時、違う建物の試験室から出て来た明子に出会った。
履修科目が違ってこのところ顔を合わせていない。武馬が解き放たれて元気を呼び戻しているのに比べて、少なくとも彼よりははるかに試験に自信のある筈の明子の顔色がすぐれなかった。
彼に呼び止められ、彼女はやっと気づいて顔を上げる。試験の後もまだ何かを思いつめている表情だった。
「どうしたの、顔色が悪いよ」
明子はうったえるような眼で彼を見つめた。
「僕ならともかく、試験のことじゃなさそうだな」
明子は頷く。
「どうしたんだい、一体」
迷ったように明子はうつ向いた。
「え?」
「お店が、人の手に渡りそうなの。渡るってより、盗まれるんだわ」
「店が?」
「ええ、思いがけないことよ。だまされてるんだわ私たち」
「どうして ──」
「───」
「誰が一体そんな」
「それが ──」
明子は激しく唇を噛んだ。その頬が青ざめ、怒りにふるえていた。
「それが、あの大臣の桜井なんです」

「桜井が!」
その名前は意外だった。桜井といえば、先の汚職問題で結局「川北」の先代の女将おかみえい子の自殺で救われたようなものだ。その点「川北」に対しては並みの恩義ではすまない筈である。
桜井とえい子の仲がとやかく言われてはいたがそれは別としても、その娘の香世や明子たちには桜井が気持の上で特別のはからいをしていて当然の筈だった。
「ななんて奴だ、恩知らずめ」
そんなことはどうでもいいんです。でもお店は渡せないわ。口惜くやしいもの」
明子は思わず唇をふるわせている。
「一体どういういきさつなの。僕が聞いてもどうなりゃしないかも知れないけれど」
「おい、練習だぞ」
明子と話している武馬へ後から声をかけて森が通る。頷き返す彼へ、
「今晩、うちへいらっして下さらない。いろいろお話しするわ」
「そりゃいいけど、僕がいったって。それより誰か ──」
「そうじゃないの。私お姉さんが心配なんです。しんは強い人だからまさか馬鹿なことはと思うけど、でも ──」
「お姉さんが ──」
「そう。こんな時こそお姉さんのために武馬さんがいて欲しいわ」
「どうしたんだ」
「桜井が、お姉さんに向かってひどいことを言ったんです。いやらしいことを」
「いやらしいことを?」
「お姉さんが、あの男の言いなりになれば、お店もそのままにしておいてやろうって」
「なんだって! そんな、香世さんは、なくなった女将かみさんの血のつながった娘じゃないか」
明子は唇を噛んで頷いた。
「可愛そうなお母さん。だから、私はあんな世界は嫌いなんです」
言いながら必死にこらえてはいたが、思わずそむけた横顔に涙があふれかかった。
「畜生! そんなこと絶対にさせるもんか。香世さんは、ぼ、ぼくにとっても姉さんなんだ」
明子は涙をうかべたまますがるような眼で武馬を見た。
また後から、他の部員が彼に声をかけて過ぎた。
「私、かえります。夜いらっしてね」
言って明子は側を離れる。
部室に入って、
「どうしたい、憂鬱な顔してるじゃねえか。しの分だとさしずめ試験はマズったな」
森が言う。
「憂鬱じゃない、憤ってるんだ」
「お、怖いね」
試験が終わった気安さで誰も本心から武馬にとり合おうとはしない。久しぶりに全員そろって練習を開始しながら、武馬一人の胸が晴れなかった。明子の言った、「いやらしいこと」というひと言が胸を刺していつまでもうずいた。それを聞かされて改めて、武馬は血のつながった姉としての香世を感じ直していた。
それが、たとい、ああした世界では茶飯事さはんじ のように通用することであろうことも、香世や明子に関して、自分の命を賭けてもそんなことは許せないことだ。
2022/07/06
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