~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-142)
家へ帰り、夕飯をとりながらも武馬はそのことばかりを考えつづけた。考えてもどうという方法が見つからず、見つからぬままに武馬は一人で憤りつづけた。
食事をすませた後、「川北」へ出かけた。店は普段と変わりなくやっている。しかし、案内された茶の間に入って来た香世も明子も流石いつもと違った顔色に見える。明子が説明する間、黙って頷き聞いてい、女中が何か伺いをたてに来ればその時だけは努めてはきはき答えている香世がかえって痛々しく見える。
いきさつというのは、三年近く前「川北」の店を増築改築した費用の捻出を店を担保にえい子は桜井に頼んだ。どんな工面かが知らぬがともかくも桜井はいるだけの金を揃えて渡した。半額は自分の顔を効かしての正当な融資、後の半額は彼自身の私的な金だった。
後半分については、桜井とえい子の間柄がすすんでその決済は当然この世界の常識でうやむやにはなっかが、証書を入れての融資に関してはえい子の生前中に間違いなく返済をすませた筈だと言う。えい子の手伝いをしていた香世もそのことを覚えている。
その金額の返済ずみの領収書が戻らぬままに汚職の問題がごたつき出し、用心のために桜井の足が遠のいたりしてやがてえい子の自殺となりそれきりになってしまったという。
それが事件のほとぼりのさめかけた今になってまたし返しになったというのだ。奇怪なことに、その金額について、桜井から融資を仰いだ先への返済証だけがあり、結果として先方の債権を桜井が代わって「川北」に対して持った形になっている。
桜井が見せた、彼からの先方宛の返済証明の日付は丁度えい子がその金額を彼を通して手渡した頃のものだ。勿論、桜井の手にある返済証はえい子が渡した金によるものであることは間違いない。
ところが桜井は鉄面皮てつめんぴにもその返済を彼が、彼自身の金でえい子のために代行したものと言い張り、その債権を改めて「川北」に要求して来たのだ。
香世が事件の前頃えい子が間違いなく彼へ手渡した金額について抗議すると、桜井は図々しくの、その金額は彼がえい子へ私的に用立てた金の返済として受け取ったと言う。その言い分は、この世界では図々しいというより女とはいえ、えい子に受けた恩を忘れた破廉恥はれんちと言えた。
結局、えい子はただで彼のために利用され、ただで彼のために死んだことになる。桜井にして見れば今更死んだ女の恩義に感じるのは無駄ということなのだろう。
とにかく、元はといえば、えい子が桜井を男として信用したことに誤りがあったのだ。
2022/07/06
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