~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-143)
五日前、桜井は久々に「川北」へやって来た。以前と同じように、我が家へ上るように靴を脱ぎすて中へ通ると、それでも茶の間の仏壇で一応は殊勝にえい子の位牌いはいへ手を合わせた。
その後、座敷へ香世を呼び寄せると、彼は藪から棒に彼の「川北」に対する債権を示す証書を並べて見せ。香世に自分に対する債務の履行を要求した。
「わしもいろいろこんどのことで金がいってな。占拠も近いし、金がいるのだ。急に言うようだが、期限もあることだ、この金額をどうにも揃えてもらいた。出来なければ担保になっているこの店を押えさせる」
なぶるような眼で彼は言った。
証書を見直し、驚いて抗議する香世に返って来た返事は、ともかくも彼を信じていたえい子や彼女たちを裏切って破廉恥なものでしかなかった。
「期限はとうに来ている。改めてこちらで日数を区切ろう。その間に必ず返済をしてもらいた。わしも今度の選挙では案外苦戦かも知らん。選挙民というものは馬鹿なもんで、つまらん印象に案外迷わされるからな」
その言葉を耳の遠くで聞きながら香世は茫然ぼうぜんとしたまま坐っていた。桜井を咎めるよりの、だまされたまま死んでいった母をうらむ気持だった。
はっと気づいた時、眼の前に男の顔があった。桜井が妙な笑いを浮かべて香世をのぞき込んでいた。
「よう、似てる」
言う間にその手が肩を捉え、片手で彼女の指をとった。
「しかしこれは別な話だ。お前が死んだえい子と同じようにしてくれるならこの家はお前にまかそう。金は別にどうにでもする」
「な、ないをおっしゃるんです」
「よく考えてみろ、店がなくなってお前の身の上や妹はどうする。えい子もその方が喜ぶだろうな。そうしなさい」
肩に廻された腕に力が入り、指を離れた片手がえりから胸に伝おうとした時、しなうように細く白い香世の掌が桜井の頬に鳴った。
「な、なにをする」
はずみにつきにけられ、後へ両手をついたまま唇を歪めながら、それでももう一度なだめかかるように桜井は無理に笑って頬を寄せようとした。延ばしたその手を叩き落とすように香世の白い掌が打った。
「馬鹿に為さらないで下さい。犬や猫ではあるまいし。亡くなった母だって今じゃあなたを玄関から上げやしないでしょう。どんなからくりか存じませんが、『川北』は私たちのものです。間違いなく」
「そうか、そういうつもりなのだな」
桜井は威をとり戻すようにえあざとゆっくり坐り直した。
「お帰り下さい」
「だがお前が何と言おうと、この証書は証書として立派に通用するのだぞ」
「恥知らず!」
言ったまま香世は立ち上がった。
走り込んだ茶の間で様子に驚く明子の前で、思わず仏壇を仰いだまま香世は唇を噛んで泣き出した。
玄関で不機嫌に女中を怒鳴る桜井の声が聞こえ、おろおろした女中が一人茶の間を覗きまた慌てて顔を引っ込めた。
「どうしたの、お姉さん」
傍へ寄って訊ねた明子に、涙を拭きながら顔を上げると、
「明ちゃん、しっかりして、私たち二人さえいれば他に何もいらないわね」
口走るように香世は言った。
2022/07/07
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