~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-144)
武馬は黙って明子の言うことを聞いていた。段々に体が熱くなり憤りがこみ上げて来た。
「でも、あなたの身に何もなくてよかった」
言いながら声が震えていた。
「も、もしも何かがあったら、ぼくは、弟としてあの男を殺してやる」
香世は驚いたように、武馬を武馬を見つめそっと微笑した。その微笑は痛々しかった。
「私、もう本当にこんな商売いやになったわ」
「しかし、そんなこと言ってこの店を明け渡すつもりなんですか」
「でも、今うちにそんなお金到底ありはしないもの」
「どこかで借りる訳には」
「とても覚束おぼつかないわ。たった一枚の紙きれのためにと思うと、矢張り口惜しい。ってよりなんだか情けなくなって来るわ」
「でももともとお母さんが残していってくれたものなんだもの。始めからなかったと思えばさっぱりするわ」
「駄目だな、女はあきらめが早くて。第一口惜しいじゃないか、悪い奴のいうままになって奴らを栄えさせるなんて」
「そう言ったって、店を取られても、お金を返しても、どっちにしろあの男の言いなりよ。新橋に新しい女の人が出来て、それを落籍 ひ かせて商売をさせるつもりらしいわ」
「店を渡したり、金をは払ったりせずにんんとか ──」
「あの証書があの男の手にある限り、あくぁ言われればどうにもなりはしないのよ」
「ともかく金策をしたら」
「それはやって見たわ。でもなかなか簡単にいきはしないんです。しながら明子とも話し合ったんだけど、これがそんなにしてまで続けなけりゃならない商売だろうかって。私も母から習って見よう見真似でやっては来はしたけれど、矢張りつくづくこの世界の水には馴染なじめそうもないんです。今度のことで二人とも同じようにそう思ったわ」
「でもそうは言っても、いきなり無一文で世間へ飛び出す訳にもいきはしない。元々二人のものなんだもの、なんとかそれを取り返す算段をしなくちゃ。商売変えはその上でもいい」
結局三人とも堂々めぐりで考え込むだけだった。
武馬にしても、心の上での激励以外にどうしてやることも出来はしない。ともかく言葉だけは尽くして「川北」を辞した。
戸口まで送って出た明子が、
「もし、何もかもが駄目になったら、武馬さんは本当にお姉さんを助けて上げてね」
「それはやるさ。学校止めて土方やったって守ってやる」
大袈裟おおげさね」
明子は笑ったが、二人とも気持は悲愴ひそうだった。
帰ってお師匠さんに訳を話した。果せるかな怒髪どはつ天を突いて怒ったが、お師匠さんとしても彼女たち二人に実質的に何をしてやる訳にもいかない。
「── 金策ねえ、私には昔から縁のない話だ。ましてみすみす騙されて払うために、そのような金をわざわざ作るのはたまらないねえ」
首を振ったり、宙に眼をえたりして見るが、この事に関してはお師匠さんも武馬も同じ事だ。
「私にせいぜい出来るのは、二人があの店を失くした後の身の振り方の相談ぐらいだねえ。それにしても全く、男てのあなんてにくいものだろう」
師匠は眼の前の武馬をにらみつけるようにして言った。
2022/07/09
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