~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-145)
翌日、学校で顔を合わせた和久にも同じ事を相談してみた。
「ふーん、非道ひでえ野郎もいるもんだ。何か新聞か雑誌ですっぱ抜いてやればいい」
「しかしそうやっても結局は水掛け論で証書のある方の勝ちだよ。和久組でなんとかならまいかね」
「しぐといって、そんな金はないよ。俺に出来るのもせいぜいが後の身の振り方の世話ぐらいだな」
「赤坂では名の通った店だからな。桜井なんぞの手に渡すのも惜しい話だ。和久組で経営する訳にはいかないか。管理は彼女たちにまかせて」
「馬鹿言え、そんな酔狂すいきょう な趣味はない」
言いながらふと思いついたように、
「ん、そうだいいこよを想い出した。誰にやらせるのか知らないが、とにかく辰川たつかわの大親分が親分の息がかりで何処かで料亭を始めようとしているってえ話を聞いな。未だ決まった話でないとすりゃ、あの親分に訳を言って頼んでみたらいい。金はすごく持ってるよ。彼女たちが水商売を止める気があるんなら、親分に金を出して貰って、あの店は向うにまかせ、店の家賃として月々充分な生活費を出させるという方法もある。別の仕事もそれから考えりゃいい。親分のことだ、その話にも力は貸してくれるだろう」
「そりゃいい考えかも知れない」
「早速いって見るんだな」
「誰が」
「君がだよ。俺が一緒にいくてもないだろう。元々、君のはなはだ個人的情熱もこの奔走の理由の一つだからな」
和久はにやりとして言う。
「とにかく親分はあれ以来君のことは凄く気に入ったそうだぜ。この前会った時も君のことを訊いていた。君がいけば誰が居ても会って話を聞いてくれるだろう」
和久から辰川親分の家を聞くと翌日、学校の後武馬は一人親分を訪ねて行った。
途中、省線の吊り革につかまっている内、戸口を一つ隔てて向う側に同じように吊り革を掴んで立っている男の横顔に気づいた。次第に混んで来て電車がやがて武馬の降りる駅で乱暴なブレーキをかけて停車した時、反動で混み合った乗客が重なってよろける瞬間、その男の手がまたしても電光の如く走るのを武馬だけが見ていた。
開いた戸口に男は客をわけて出て行く。飛び下りた武馬は男の後姿を追いかけた。
大阪の駅でとは違って、ある別のことがふと武馬の頭をかすめていた。
2022/07/09
Next