~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-146)
改札口を出ると男は駅前の繁華街を避けて、線路に沿って人通りの少ない方へ旗足で速足はやあしで歩いて行く。
武馬は間隔かんかくを置いてその後を追った。声をかけるには矢張り人の居ない所の方が良さそうだ。
踏み切りの前を通ると男は静かな住宅地の方へ向かっていく。その辺りまで来ると足の速度が落ちた。一度ちらと後を振り返って見た後、彼は歩きながら何か懐からとり出したものを前であらためている様子だ。
武馬が今までの歩調で近づいて行くと男は姿勢を正したまま相変わらずぶらぶら歩いている。
追いついて後から、
「小父さん、川内伴治さん」
声をかけた。男は背中をびくりとさせ立ち止って振り返った。その顔へ武馬はにやりと笑って見せた。伴治は一瞬、凄い眼で見返しかかったが、
「や、あの時の!」
「相変わらず神業だな。さっきは扇子せんすを使わなかったけど」
「なあにあんあ薄のろをやるには ──。ええっ、あんたまた見てたのかい」
「見てたよ。感心した」
「嫌だねえ、人が悪い」
「どうも悪縁という奴かな。縁があったらまた会おうと言ったのは小父さんの方だぜ」
「会いたかないひとだよ、あんたは」
言いながら彼は懐から大きな財布を取り出し、惜しそうに、幾分いまいましそうに見つめた。
「いいよ、──しまっときたまえ。その代わりちょっと話があるんだ」
伴治は放り込むように財布を懐の中にしまった。
「話というなら、何処かで一杯やりながらしようか、おごりますぜ」
「いや、余り人気ひとけのないところの方がいいんだ」
彼は怪訝けげんな表情で、それでも頷いた。二人はゆっくろち歩き出した。
「小父さん、小父さんはこの夏大阪の駅で初めて会った時、俺は日本で五本の指に入るスリだと言ってたね」
「しっ、声が高い」
伴治は慌てて周りを見たが、
「そうだ。五本じゃねえ。三本指の一人だ」
大きく頷いて、指を三本突き出して見せる。
「なるほど、見てりゃ本当に神技だ」
「へへ、そう言われりゃ照れるがね。俺がガンをつけてこの指にひっかかって来ないものはまずねえな。この間、テレビでなんとかいう外国のスリが手前の技を大きな顔で披露ひろうしてやがったが、あんなもなあ俺たちから見りゃ子供だましだ」
「本当にスレないものは何もない?」
「まずな。一口話に名人のスリならはらんだ女の腹の中の赤ん坊までスルたあ言うが、産婦人科の医者じゃあるまいしまさかそこまではな。しかし、かけをして女が履いている足袋たびをスッた仲間だっていらあな」
「そうか ──」
武馬の口から思わず歎息が出た。その時武馬の頭の内には一枚の紙切れがあった。「川北」の姉妹を苦しめている、憎むべき男の手の内にあるたった一枚のあの紙切れが。
2022/07/09
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