~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-147)
「なんだい、どうかしたかい」
伴治の方で訊いた。
「じ、実はあるものがどうしても手に入れたい。今日もそのことである人に無理な相談を頼みにいくところだったんだけど、途中で小父さんを見つけてふっと ──」
「何だか知らねえが ──」
「人助けなんだ。僕じゃない。悪い男にだまされ身代みのしろを横取りされようとしている親のない女二人の姉妹の身の上のことなんだ」
「なんだかほろりとさせそうな話になりそうだね」
「とにかく、その姉妹をその男の手から助けるために、小父さんを見てふと、毒をもって毒を制すと」
「てえと私がその、毒を制する、毒てえ訳かい」
「あ、失礼」
「へへ、まあいいや。なあ、人さまのものを失敬して飯を食ってるんだ。確かにそうめられた商売でもねえ。で、何をスリゃいいんだい」
伴治も気が早い。
「紙です。一枚の」
「紙?」
武馬は「川北」乗っ取りについての話の概略を、彼に話した。
「はーん。なるほどあの汚職の後にそういう一幕がくっついてやがったのか。それにしても太えのはその大臣でえじんてえ野郎だな。どの道、政治家だの代議士だのてえ野郎にてげえロクな代物しろものはいねえが、その大臣も色と欲の二股をかけやがって男の風上にも置けねえ奴だ」伴治はさかんに憤慨した。
「それにしても、可哀想なのはその娘たちだな。気なげに母親の跡をついでは来たが、それも、今や、風前のともし火という奴だ」
伴治は言葉へ妙な浪曲じみた節をつけながら自分の首筋をぽんと手で打った。
「それを助けようってのがあんただ。それが男の向っ気だ。偉いもんだ。勿論、少しあその姉妹のどっちかにれてんでしょうがなあ」
「い、いやあ ──」
「まあまあ、それで、その姉妹の命はその大臣でえじんが持ってやがる証文一枚にかかってるてえ訳だ。ん、話あわかりやした。なあにね、スリてえのは昔から偉ぶった野郎が嫌いでね。一昔前は、威張いばりくさった野郎の鼻あかしに、総理大臣だの、代議士なんぞという奴らの懐の金時計をスッたり、代わりに懐へ切れた下駄げた鼻緒はなおなんぞをねじ込んでやった偉い仲間が沢山いたものだ。つまり、その証文の紙切れをやればいいんでしょうが」
「そ、そうなんです。やってくれますか」
「へへ、その話があっての上でさっきもあっしを見逃してくれたんでしょう。尤もその前に大阪でも一つ借りてやすからま。やりやしょう。やらして頂きやしょう」
「本当かい」
伴治はにやりと頷いて胸をそらせた。
「それに、たまにゃこの指にも供養くように人助けをさせてやりたいからね。なあに、お安い御用だ、とは言いたいが、紙切れ一枚なんて代物に方が案外面倒なんだな」
一寸の間考えると、
「期限は?」
「出来るだけ早く。金の返済に、相手は期限を切っているらしいんだ」
「それに第一、その証文をその大臣の野郎はどこに持ってるんです」
「それは、よくわからない」
「そいつあ駄目だ。スリてのは、ねらったもののあり具合を確かめて始めて仕事にかかるもんで、そう手さぐりには仕事は出来ない。何かで、その野郎がその紙切れを確かに何処かに持ってるてえのがわからなきゃ。それさえわかりゃやりますがね」
「それさえわかりゃ ──」
「それはあんたの仕事ですぜ」
「わかった、それは考えよう。帰って一度彼女たちにもよく訊ねて見て、改めてお願いします」
「仕事は確かに引き受けた。あんたへ、借りの返しだ。いやそれより、その野郎の鼻っ面を明かしてやりてえね。近頃、商売をやってもいい話がなくってねえ」
「今度会うのに、どこへ連絡したらいいだろう」
「えーと。どうも泥棒の居所を教えちゃまずいんだが」
男は懐から手帳を出し、何やら書きつけると、
「ここで、師匠を呼んでくれと言や、すぐでなくても必ず私に通じます」
「師匠?」
「そうさね。この道のね、へへ、人助けの道ですよ」
男は肩をすくめ、くすぐったそうににやにや笑って見せた。
2022/07/10
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