~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-148)
偶然に川内伴治を見ての思いつきだったが、もしそれが出来れば苦しい金策をする必要のなくなる。そう思って打ち明けてみたが、彼と別れて見ると矢張りいかにも非常手段すぎてそんなことにすべてを賭けるわけにもいかない気持だった。武馬はまた重い気持で和久に教えられた辰川親分の家を捜していった。
あの男に頼んだことは別にして、辰川親分に頼めなければもう後は彼としてするすべもないことになる。
親分は在宅し、風呂へ入っているとかで一寸の間待たされたが、やがて座敷へゆで上った入道のような真赤な顔で辰川親分が入って来た。武馬を見るなり上機嫌で、
「やあやあ、和久の新代からあんたが何やら話で来ると電話があって、楽しみにしてた」
楽しみにと言われるとまたかえって切り出しにくい話だ。
「実は ──」
言い出そうとする武馬へ、
「まあまあまあ」
と一こんさす。武馬は仕方なしに受けた。
「元気そうだな」
「はあ、元気は元気です」
「和久の組長には時々会うが、あんたが見えないと何かが抜けてるみたいでいつも寂しいよ。ま、迷惑に面倒だろうが、組の方へも時々顔を見せてやって下さい。組の者も喜ぶだろう」
「はあ、なんとなく僕もいろいろ忙しくって」
「ラグビーをやってるそうだね」
「はあ」
「わしの戦争で死んだ息子もそれをやっておった。つまり、そっちの方でもあんたの先輩という訳だな」
「それじゃ繁岡しげおかさんと同じ頃ですね」
「繁岡?」
「はあ、僕らのクラス担任で、動物学の助教授です。矢張りラグビーの方の先輩ですが、確かお亡くなりになった方も動物の方を専攻とか、一二年違っても大体同じ頃と思いますが」
「繁岡、繁岡 ── ん、そうだ」
「御存知ですか」
それには答えず手を打って奥を呼ぶと、出て来た若い女将に何やら言いつけた。間もなく持って来られた古いアルバムから、その中に挟まれたあった紙の色の変わった封筒を取り出すと中を開いて、
「そうだそうだ、繁岡だ。どうも近頃ものの覚えが悪くなった。ほう、あの繁岡君があんた方のクラスの先生かね」
「御存知ですか」
「知ってます。死んだ息子の仲のいい友だちだった。学生の頃二、三度家へも来たことがある筈だ。先に出征しゅっせいした息子が、ほれ、私への手紙に書いて来ているほどの友だちだ。ここにその頃の写真もある。
開かれたアルバムの古い頁に、今も変わりない本郷のグラウンドの辺りをバックに坐った若いラガーたちの写真が幾葉かある。親分の指した青年の隣に肩を組んで間違いなく若き日の繁岡氏がいた。
「そうかい、そうなのか。あの繁岡君のなあ。息子が生きておれば、或いは、あんたは息子のクラスの生徒になったかも知れん訳だ。ついでだ、これも読んで下さい。息子が最後にインパールからよこした手紙です。戦争の後に出た、戦没学生の手記にも載せてもらいました」
言葉まで改まって、親分はいとおしそうに色あせた古い手紙を武馬に手渡した。武馬も一種厳粛な気持で若くして不幸な戦いにった先輩の心情を受け取って眼にしていった。親分が言った通り、手紙の途中に、
この半年、繁岡から返事が来ません。彼もとうとう僕と同じように戦場に向かったことでしょう。近眼の彼が、軍隊で余計な苦労をしないかと心配です。出来れば、僕と全く違った戦線に向かってくれれないい。彼か、僕のどちらかが、あのなつかしい大学の標本室へ戻って、また同じ研究をつづけることが出来たらと思います。
戦場でもいろいろな動物を眼にします。戦いにまき込まれた彼らも不幸に見えます。彼らを眼にすると、僕たち研究室で飼っていた動物を思い出します。その時に自分がなんと遠い空の下にいるのかということも感じます。(中略) 僕はもう人間については考えません。インパールの泥沼に中で、僕らはもう人間ではなく、完全に一つの物になろうと努力しているのだから。でも、眼の前をおびえて逃れていく動物や鳥たちを見ると、最少、彼らのために、この戦争は無益なものだったとは思うのです ──
それは数ある戦没学生の手記の中で、彼が愛していた動物に対して戦争への疑惑と怒りを綴ったユニークな一人の若者の遺書だった。
読み終わり、そうっと涙しながら武馬はもう一度アルバムの写真を見つめた。古びた写真の中で、今の武馬たちと殆ど変わらず同じ表情、同じ姿勢で、ただひとつ頭だけは丸めて、彼らは笑っていた。その若者たちの内の一体何人が今生き残っているのだろうかということを武馬は想った。新しい感動のようなものが胸の内をよぎった。
親分は丁寧な手つきでその手紙をアルバムの間にはさみ、一寸の間瞑目めいもくし、やがてゆっくり微笑うと、
「わしは出来るだけこのアルバムも手紙も覗かんことにしてるのです。それを見ると、わしは何かに、自分に向かっても、何故だか怒りたくなる」
静かに言った。アルバムをそっと脇に押しやり、武馬のさかづきに向かって新しく注ぐと、
「あんたがラグビーを始めてると聞いて、息子を想い出したが、そうか、繁岡さんのお弟子という訳か。これは嬉しい話だ」
気持よさそうに笑い、盃をかかげ直す辰川に応えながら、そんな気分の彼をわずらわざずにいっそこのまま帰ってしまおうかと思ったがそうもいかず、よもやまの話をつづけながら武馬は話のきっかけを待った。
2022/07/10
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