~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-149)
する内、酒に添えられて新しく料理が運ばれたのをきっかけに、辰川の方が、
「それで、あんたのお話しとは」
「実は、相談というよりお願いがありまして」
「ほう?」
「親分にある料理屋を買ってもらいたいのです」
「料理屋? 珍しいことを言う。一体何で」
「人を助けたいのです」
「誰を?」
「僕の友人の姉妹です。妹の方は同じクラスの学生なんです。親分が近い内料亭を始められると和久から聞いたもので」
「訳を聞こう」
武馬は順を追ってそのいきさつを話していった。親分は黙ったまま聞いていた。聞き終わって、
「ふーむ、桜井という男もちたのう」
吐き出すように言った。
「人間としてのあの男への制裁は後で他にもっと何かの方法はあるでしょう。しかし前に彼のたくらみからなんとか彼女たちを救いたいのです」
親分は頷く。
「そこで親分に ──。桜井に返さなくてはならぬ羽目の金額は今『川北』を売り払った金額では少し及ばぬそうです。しかし『川北』はいわば名舗でしょう。だから欲を言って、親分にあの店をもっと高く買って頂きたいのです。つまり、あの店を手離した後の彼女たちの生活費の保証を『川北』の地代とか家賃という形で」
「なるほど。しかし、それはあんたが一人で考えついたことかい」
親分はゆっくりと微笑しながら訊いた。
「いえ、実は、和久に相談したところそう言われまして。親分はすごい金持だそうで」
「ははは」
辰川は声を出して笑った。
「あんたの話は、取引のすすめとか相談と言うよりは、一種の無心だな。がいい、それでいい。それでいいのだよ。私あ金持じゃないが、金は作れる」
「それで ──」
「言われる通り買っても損な買いものじゃないと私は思う」
「それじゃよろしいんですか」
「そうせっかちに言うものじゃない。とにかく考えよう。そうとなれば一度『川北』の家を見てみなければならん。いずれにしても困っているその二人を出来ることなら助けて上げたいものだ。しかし家を売るということ以外になにか方法はないものかな、たかが一枚の紙片で ──」
親分もそう言って腕を組んだ。
武馬は先刻川内伴治に頼んだことを話そうかと思ったが笑われそうで止めた。
親分が考えてくれたところで別に良い方法はありそうもない。辰川の大親分とはいえ、いかに相手が非道な大臣野郎でもそう無理は出来ない。それに時間がない。
ともかく一度実地に家を見て親分の腹を決めて貰う約束で家を辞した。
赤坂に帰り香世や明子にことのいきさつを話した。彼女たちの金策は思わしくいっていない様子だ。そうなれば辰川の出方に頼るより手はない。二人に礼を言われともかく武馬は家に戻った。
辰川が武馬や和久の願いを容れ、香世や明子にどれほど寛大に出てくれるかは知らぬが、いずれにしろあの桜井のために二人が資産の大半をみすみす失っていくことには違いない。それが世間に通る様式なのかは知らないが、なんにしてもただの紙切れ一枚に人間の生死がかかっているのかと思うと武馬には不条理な気がしてならないのだ。
一枚の紙切れ、と思うと武馬はまたまたあの川内伴治の神秘な指先を想い出さずにはいられない。金策で駈け廻るより、その証文の有り場所をつきとめ、伴治に頼まなくとも、武馬一人がそこへ忍び込んでそれを盗み出して来てもいいとさえ思う。
翌日、学校で、和久に前日のいきさつを話した。ついでに川内伴治についても。
「へえ、川内伴治ねえ ──」
「知ってるのか」
「名前は知っている。以前うちにスリからヤクザになった若い者がいたんだ。その男から鷹の眼川内伴治の名前は聞いていた。神様みたいに言ってたぜ」
「そうなんだ、電光石火とはあのことだ。彼に気づいて見ていても、とにかく実際にスルところは全然見えないくらいの速さだ ──」
和久は急に一人で考え込んだ。やがて武馬を見直すと、
「そいつあ、ひょっとしたらやれるぜ。伴治が本当にうんと言ったのなら ──」
「しかし、例の証文がいつどこにあるかが問題だ」
「わかっている」
和久は急ににやりと笑い、次いで真面目な顔つきになると、
「ひとつ、大博打おおばくちをやるか」
「なんだ」
「のるかそるかだ。いずれにしろもう後は辰川の親分に頼むより手はないだろう。そいうとなりゃ、どっちにしても金を受け取りに、或いは『川北』を乗っ取りに桜井はあの家へやって来る。つまり、金を返すから、代わりに証文を返してくれということで桜井を呼ぶ。その時なら間違いなくあの男は証文を持って来る」
「なるほど、それをやるのか」
「そうだ。その一大勝負で失敗すれば、矢張り彼女たちの負けだ。家を渡すか金を払うかになるんだ。その一瞬前の大博打だ」
「うむ、失敗するかも知らん。しかし成功の可能性もあるな。『川北』が伴治の指一本にかけられるのだ」
「いや、やるのは彼だが、その前になんとか俺たちの手で彼がそれをやり易いようにいろいろ調べ出来る限りの道具建てはするんだ。桜井はこの前その証文を何処から出したか。書類のかばんか、ポケットか、ポケットとしたら右か左か」
「それは香世さんに聞けばわかる。しかし、前は右ポケットでもその日左に入れていれば」
「それも博打だ。しかし誰でも上着のポケットの左右は何を入れるかたいてい決まっているものだぜ」
和久は細かいことを言う。
「それに、一度に左右のポケットを当たるぐらいは伴治」には朝飯前だろうが」
2022/07/10
Next